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古くから,仏に供える水を称して「閼伽の水」という。ところが,「閼伽」という言葉自体,「水」を意味するという理解もあった。後者の理解を前提とすると,「閼伽の水」という表現は,重複表現ということになる。この点に関する江戸時代の議論がある。
現在のアメリカの法曹教育は,ラングデルが創始し,大学系ロースクールを基盤として確立した。この教育システムに対しては,古くからリアリズム法学などの立場から批判の声があり,他方,臨床実務教育や法曹倫理教育の不足を問う声もある。
下橋敬長『幕末の宮廷』(東洋文庫・62頁)には,江戸時代においても,朝廷において,平安時代に行われていた「着鈦政」を「北陣」と称し,斬首刑の真似事をするという年中行事があったことが説かれている。「コウベ」と呼ばれる罪人役を演じる百姓も定ま…
消極的事実の証明について,それは「悪魔の証明」といわれることがある。しかし,沿革的にみれば,両者は全く関係のない概念である。少なくとも消極的事実の証明であるからといって,必ずしも「悪魔の証明」になるわけではない。
東京地判平成18年5月11日に対する判例時報の解説コメントには,同判決に対するインターネット上の批判に反論する部分がある。掲示板やブログ上の批判が,判例時報上で弁解するに値すると見なされたのであれば,その権威もなかなかのものである。
ジョルジュ・ミノワ『悪魔の文化史』によれば、フランスでは、1682年の王令により魔女罪が廃止され、教皇パウルス6世の教皇書簡で祓魔師という聖職位を廃したため,1972年8月15日には,祓魔師の職務が消滅したとのことである。
三保忠夫『数え方の日本史』は, ウサギを「一羽二羽」と数えることについて、そのような数え方は、中世の故実書や近世の書札礼などには見られず、もともとは文字を持たない庶民層の生活語にであったのではないかなどと指摘する。
「糸脈」という診断法(貴人の肌に触れるのをはばかり、絹糸の一方を患者の手の脈どころに巻いて,離れたところから糸に伝わる脈搏を間接的にはかる方法)は、現実には存在しなかったと思われる。
車道外側線の左側部分は,車道とはいえないことが明らかであり,したがって,車道ではない,このような部分を車両で通行することは通行区分に違反し,特別の場合を除いて許されないものと解すべきであるとした事例
「悪魔の証明」という言葉は、所有権の証明が困難であることをいうための比喩である。それでは、所有権の証明における困難とは何か。所有権の証明が困難であるとして、そこで「悪魔」なるものが、どうして出てこなければならないのか。
仏教語「閼伽」とラテン語「aqua」が同語源であるとする俗説がある。しかし,これは「正面切って反駁するに値しない、いわゆる語源俗解の好例」である。