言語
離婚判決における「XとYとを離婚する」という他動詞表現は、形成判決であることを示すための約束事であり、明治38年頃に自覚的に採用されたものと思われる。この他動詞用法を「特殊用法」とする見解は、この歴史的な由来を踏まえていないように見える。
隋の煬帝を呉音で「ようだい」と読むのは、単なる和文の「読み癖」が残っているにすぎないと考えられる。しかし、最近、煬帝は悪帝であるから、敢えて呉音で読んだという説を前提とする論文が発表されたので、関係する反対資料の指摘をするなどした。
原田信男『神と肉』は,「屠」と「祝」を同根であるとする。結論に積極的に反対する理由はないが,同書は,論理が粗雑であるばかりか,資料を誤読するものである。何より,著者には,古字書の読み方について,基本的な理解さえないように思われる。
古くから,仏に供える水を称して「閼伽の水」という。ところが,「閼伽」という言葉自体,「水」を意味するという理解もあった。後者の理解を前提とすると,「閼伽の水」という表現は,重複表現ということになる。この点に関する江戸時代の議論がある。
消極的事実の証明について,それは「悪魔の証明」といわれることがある。しかし,沿革的にみれば,両者は全く関係のない概念である。少なくとも消極的事実の証明であるからといって,必ずしも「悪魔の証明」になるわけではない。
吉野作造「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」に対する疑問は「憲政有終の美」を飾ってしまっては,憲政が終わってしまうのではないかということである。「憲政1.0」の時代が終わり,「憲政2.0」の時代が始まるということであろうか。
重複表現に関しては、「漢字の重複」という概念が必要ではないか。「漢字の重複」は、必ずしも「意味の重複」を意味しないが、「漢字の重複」によって、「意味の重複」による重複感が際立つ場合があるように思われる。
「水色」とは,「水の色」のことではなく,「水で薄めた色」のことであるという記事があった。しかし,藍染の濃淡は,染め重ねる回数を調整することによって作り出す。薄い色を作るにあたり,水で薄めるという発想はないと考えてよさそうである。
「国乱れて忠臣現る」の典拠が、『老子』であるとは断じえない。また、『老子』が典拠の成句であるからといって、『老子』の当該箇所と同じコンテクストで用いなければならないわけではない。
坪内祐三氏のコラム「『心の闇』の本当の意味を教えてあげよう」は,尾崎紅葉の小説『心の闇』を挙げ,「『心の闇』とはこんなに深い言葉なのだ」と結ぶ。しかし、紅葉の用例は,平安時代に遡る歌語「心の闇」に連なるものにすぎない。
エビスビールが「YEBISU」と書かれる理由は,中世の日本語では「え」を「ye」と発音しており,それを写した古いローマ字表記が残っているからである。「えびす」を「ゑびす」と書くことがあることとは無関係である。
三保忠夫『数え方の日本史』は, ウサギを「一羽二羽」と数えることについて、そのような数え方は、中世の故実書や近世の書札礼などには見られず、もともとは文字を持たない庶民層の生活語にであったのではないかなどと指摘する。
「水源」という熟語に含まれる「源」という字、「源」という字に含まれる「原」という字、「原」という字に含まれる「泉」という字は、いずれも「水源」という意味である。
「兄弟」と書いて兄弟姉妹を指す用例は『古事記』に遡るが、男子に対する呼称で男女を代表する一例にすぎないであろう。他方、「姉妹」と書いて「きょうだい」と読むのは、「当て字文化」の一種と考えられようか。
帝王切開を意味する「sectio caesarea」の語源について、各国の辞書を整理すると、(1)ユリウス・カエサル説、(2) ラテン語「caedere」説、(3)カエサル法説、(4)ラテン語「caesar」説が百家争鳴している。
イシドルス(c.560-636)の『語源』の記述なども勘案すると、結論として、「section caesarea」の語源は、究極的にはラテン語「caedere」であるが、直接的にはカエサルの伝説に関係するといえようか。
帝王切開を意味する「sectio caesarea」が、16世紀に帝王切開術が可能になって、新たに造語されたものであることは確かのようである。フランスの辞書の多くは、この語源をラテン語「caesar」に求める。
ラテン語「sectio caesarea」の語源には諸説がある。この点の議論の出発点となるプリニウスの『博物誌』を再検討してみると、この単語は,少なくともプリニウスの時代までのラテン語には存在しなかったことに気づく。
1.問題の所在 かねがね気になっていたのだが,漢字を扱ったサイトで,しばしば「最も長い読みの漢字は何か」という記事を見かける。 読みが長い漢字(新感覚!「楽しむ漢字」の辞典) 日本で一番長い読みをする漢字(お宝ホーム) 長訓読み選手権(曉に死…
誤用とされる「確信犯」の用法は、既に『日本国語大辞典』に俗用として採用されている。他方、「確信犯」の誤用に対し、誤用でないとする説、これを「故意犯」と言い換えるべきとする説は、いずれも採用しがたい。
「嬢」と「娘」は、同音であり、意味も似ている。しかし、中国の玉篇では、両者の字義が異なり、字音も異なる場合があったという事になる。この点に関連する資料の覚書である。他方、我が国の万葉集の時代に区別があったかは、微妙である。
お役所では「見え消し」という単語を使う。古文書学などでは「見せ消ち」という言い方をする。「見せ消ち」から「見え消し」が生じたと考えるのが自然であろうが、なぜ「見せ消し」ではなく「見え消し」となったのであろうか。
「悪魔の証明」という言葉は、所有権の証明が困難であることをいうための比喩である。それでは、所有権の証明における困難とは何か。所有権の証明が困難であるとして、そこで「悪魔」なるものが、どうして出てこなければならないのか。
仏教語「閼伽」とラテン語「aqua」が同語源であるとする俗説がある。しかし,これは「正面切って反駁するに値しない、いわゆる語源俗解の好例」である。