「閼伽」は「aqua」ではない。

仏教語「閼伽」とラテン語「aqua」が同語源であるとする俗説がある。しかし,これは「正面切って反駁するに値しない、いわゆる語源俗解の好例」(中島利夫*1)である。

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閼伽棚*2

というのも,「閼伽」の語源はサンスクリット語で「価値ある」を意味する「arghya」であり*3,「aqua」に対応するサンスクリット語は「水」を意味する「ap」であろうとされるのである。この両者に関連性がないことは,オックスフォード羅語辞典*4・モニエル梵英辞典*5等を対照してみれば明らかである。

実際,サンスクリット語を少し調べれば,この説を否定するのは容易である。すなわち,「arghya」は,「価値ある」が原義であり,そこから「価値ある人に捧げるもの」>「価値ある人に捧げる水」と語義が派生している言葉である。したがって,これを「水」と訳す場合でも,それは「水一般」を指すことはない*6

ところが,三省堂例解古語辞典・第二版*7ジーニアス英和辞典・改訂版*8などのメジャーな学習用辞典が,この俗説を紹介したためか,今でもこれを信じている人が多い。高校の教科書に頻出する徒然草11段に「閼伽」が登場するのも大きいかもしれない。

しかし,これら三省堂例解古語辞典*9ジーニアス英和辞典*10も,それぞれ第三版から,「閼伽」=「aqua」説を載せなくなっている。誤りに気付いたと言うことであろう*11

ところで,この俗説はどこから生じたのであろうか。私は,それを山中襄太「地名語源辞典」*12だと思っており,従来,そのように説明していた。しかし,「まんどぅーかのサンスクリット・ページ」の「梵語俗説(1)」の追記部分によると*13岩田一男『英単語記憶術』 が火元だったようである*14。謝して訂正する。

ちなみに,この岩田一男『英単語記憶術』には,他にも有名な「俗説」がある。「peninsula(半島)」と「penis(男根)」を同語源とするのがそれである。しかし,「peninsula」が,ラテン語「paene(ほとんど)+insula(島)」であるのに対し,「penis」は,ラテン語「penis(しっぽ)」に由来する。これが間違いであることは,『医語語源大辞典』の立川清氏が,岩田一男氏に自ら確認されたそうである*15

*1:中島利夫「通俗語源説と『閼伽』の問題点」(奈良大学紀要第5号), pp264-266, S51・12・21, 奈良大学.

*2:春日権現絵巻・第11軸,板橋貫雄模写(NDL:WA31-13).

*3:「価値」という意味の「argha」であるとの説もある。

*4:Oxford Latin dictionary. - Oxford ; London : Clarendon P., 1968-1982.

*5:A Sanskrit-English dictionary : etymologically and philologically arranged with special reference to cognate Indo-European languages / by Sir Monier Monier-Williams. - New ed., greatly enl. and improved /with the collaboration of E. Leumann, C. Cappeller and other scholars. - Oxford : Clarendon Press , 1899.

*6:楳垣実編『外来語辞典』の「閼伽」の記述も参考になる。

*7:例解古語辞典 / 佐伯梅友〔ほか〕編著. - 第2版. - 東京 : 三省堂 , 1985.1,「閼伽」

*8:ジーニアス英和辞典 (小西友七編集主幹. - 改訂版. - 東京 : 大修館書店 , 1994.4)の 「aqua」の項目には、「「あか(閼伽)」と同語源」とある(86頁)

*9:例解古語辞典 / 小松英雄〔ほか〕編著. - 第3版. - 東京 : 三省堂 , 1992.11,「閼伽」

*10:ジーニアス英和辞典 / 小西友七, 南出康世編集主幹. - 第3版. - 東京 : 大修館書店 , 2001.「aqua」

*11:ただし,ジーニアス英和大辞典(小西友七🈀編集主幹,東京:大修館書店,2001.04)の「aqua」の項目には,「「あか(閼伽)」(仏前に備える水)と同語源;サンスクリット語 argha (水)より」として、この俗説が残っている(112頁)

*12:地名語源辞典 / 山中襄太著. - 東京 : 校倉書房 , 1968.9-1979.12,「あか」。同『続・国語語源事典』校倉書房,1989年7月25日)にも、同様の記載がある(8頁:「閼伽」)

*13:なお,本文中の「山中襄太」の名前の誤りについても指摘があった。【追補】その後、本文で論じた問題について、同サイトにも言及する論文として、笠松直「Skt. argha-arghya-,仏教語「閼伽」とLat. aqua」(歴史言語学3巻53頁,2014年11月)が表れた(P55FN2)。

*14:そうすると、宮本啓一『語源雑学の旅』に出てくる匿名氏は,岩田一男氏のことなのであろう。

*15:医語語源大辞典(立川清編. - 東京 : 国書刊行会 , 1976)には、「わたくしが岩田教授に出典を問い合わせたら,岩田教授自身が間違いであったと返事されたのですから,確かでしょう.」(647頁)とある。

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