「嬢」と「娘」に関する覚書
現在、「嬢」と「娘」は、同音であり、意味も似ている。しかし、「娘」は、「嬢」と異なり、篆書の段階では存在しなかったと考えられている。その初例は、6世紀に編纂された『玉篇』である。
- 嬢 女良切。母也。又、如常切。
- 娘 女良切。少女之号
これに従えば、「嬢」と「娘」は、字義が異なり、字音も異なる場合があったという事になる。宋代の『広韻』も、「嬢 女良切。母称」「娘 女良切。少女之号」とし、字音は同じであるが、字義の区別は截然としている。
ところが、時代が下ると、明代の『正字通』など、「娘」を「嬢」の俗字とする文献も散見されるようになる。このような見解に対し、『設文段注』は、「耶嬢」を「耶娘」と書きうるかという文脈で、以下のように、本来はこれを区別すべきであることを指摘している。
又按、広韻嬢 女良切、母称。亦娘 女良切、少女之号。唐人、此二字分用画然、故耶嬢字、断無有作娘者、今人乃罕知矣。
しかし、一方でこれは、清代においては、もはや知識人レベルでも「嬢」と「娘」の区別を知る者は罕(まれ)であったことを推測させる。そして、現代においては、まったくの同字と解されているようである*1。
他方、日本においてはどうかというと,平安末期の『類聚名義抄』の記載がある。
これは、『玉篇』の区別に対応するようにも思える。しかし、『名義抄』が『玉篇』の強い影響下に編纂されたものであることを考慮すれば、ただちに現実にこのような区別があったと断ずることはできない。
実際、「嬢」について、『古事記』には「ヲミナ」と訓ませている例があり、『日本霊異記』では「ヲトメ」「ヲミナ」「ヲウナ」の三通りの例が確認できる。そして、『新撰字鏡』の「嬢 女良反。婦人美也。美女也。良女也。肥大也。乎美奈」に従えば、「嬢」は「美しい女性」という意味になる。
一方、「娘」については、日本書紀に「イラツメ」の例がある。これも若い女性には限らない言葉である。
この「イラツメ」に関連して山田英雄氏の面白い研究がある*4。これによると、『万葉集』では女子の呼称として「郎女」「女郎」「大嬢」「大娘」「娘子」などがあるが、以下のような使い分けがなされていたというのである。
- 「女郎」「郎女」「大嬢」「大娘」が身分の高い女性について用いられる。
- 「女郎」は、大伴家持からみて他人に用いる。
- 「郎女」「大嬢」「大娘」は大伴家持の一族に用いる。
- 「郎女」は大伴家持からみて目上に用いる。
- 「大嬢」は大伴家持からみて同等の者に用いる。
- 「大娘」は用例が少なく「大嬢」の略字と考えられる。
- 「娘子」は地方の女性・一般女性について用いられる(少女に限らない)。
これが正しいとすれば、少なくとも大伴家持において「嬢」と「娘」に『玉篇』の示すような区別はなかったことになる。しかし、全く同じ字と認識されていたかというと、それもまた微妙なところである。
そもそも「嬢」や「娘」は、古代・中世の日本においてメジャーな漢字ではなく、一般には「女」を用いるのが普通である。一方、「お嬢さん」という意味での「嬢(じょう)」という言葉は、江戸期になって初めて生じた町人語である。ここで推測をたくましうすれば、江戸時代における町人階級の成立の過程で、大名の姫君でもなく庶民の娘っ子でもない、裕福な商人の娘又は中流以下の武家の娘を指す言葉が要求され、それに応えるものとして「お嬢さん」というのが生まれたのではないかと考えることも出来よう。