糸脈の真偽

1. 問題の所在

a. 糸脈という診断法

私が「糸脈」という単語を始めて耳にしたのは高校生の頃であったろうか。古文の教官が,平安時代の女性が人前に姿をさらすこと稀であったことを示す材料として取り上げたものだったと思う。

  • いと-みゃく【糸脈】〔名〕 (1) 近世頃まで行われていた医者の診療法の一つ。貴人の肌に触れるのをはばかり,絹糸の一方を患者の手の脈どころに巻いて,離れたところから糸に伝わる脈搏(みゃくはく)を間接的にはかること。お糸脈。(日本語国語大辞典・第二版)

そりゃ無理だろ,と当時の私は思ったものである。しかし,そこはプロである。微細な振動も見逃さないに違いないかもしれない。実際,他の辞典も「近世まで行われた(大辞典・第二版)」「江戸時代まで行われた(日本語大辞典・第二版)」など,このような診療法が現実に存在したことを前提とする記述を行っている*1。この記載を信ずるとすれば,糸脈という診療法も可能であったということになる。

果たして真相はいずれにあるのか。高校時代の疑問であった。

b. 鈴木桃野『無可有郷』

もっとも,実際のところ私は長い間この問題を忘れていた。ところが,最近,鈴木桃野(1800-1852)の随筆『無可有郷』(1830s)を読んでいて,次のような記述に出会った。

  • 糸脈といふ事,医家口常にこれを称すといへども,終に為せしといふことを聞かず。蓋しその法を知らざるなり(鈴木桃野『無可有郷』中巻・絲脈と陰陽*2

この記事を信用すれば,江戸時代(19世紀)においても,(1) 糸脈という診断法は可能だとされていたが,(2) 現実には行われることがなかった,という事になる。また,続く部分でも「糸ミやくの事しばし医家に問ひしかが,未得分明」とあり,少なくとも一般的な診断法でなかったことは確かである。

そして桃野はさらに以下のようなことを述べる。

  • 比ごろ西遊記を読むに…糸脈をとる法あり。これにて見れば…是,大いに利あり。然れども,その人扁倉にあらざれば不能ことならん。是その法をしるといへども,後世に用ゆる能ハざる所以なり。蓋し,此こと妄なるべし。況や稗官小説載せるところをや(同上)

この部分は分かりにくいが,「扁倉」が中国伝説上の名医である扁鵲と倉公のことであり,「稗官小説」が「医書」と対置して用いられているという事情を併せ考えれば,要するに「糸脈とは『伝説』や『小説』が絡む『架空』の診断法であり,現実の医療法としては存在しないに違いない」ということであろう。

そうだとすると,やはり糸脈とは伝説に過ぎなかったのであろうか

2. 医書による言及

前節では,鈴木桃野の随筆を検討することにより,(1) 糸脈という診断法は可能だとされていたが,(2) 現実には行われることがなく,(3) 桃野自身はこれを架空の診断法だと考えていた,という結論を得た。

ただ,桃野自身が認めるように*3,桃野は医者ではなく,所論の信憑性にはこの点の問題がある。そこで本章では,医家による糸脈に対する言及を考証したい。

a. 曲直瀬道三『啓迪集』(付・奈須恒徳『本朝医談』)

日本の実証医学の基礎を築いたとされる曲直瀬道三(まなせどうさん,1507-94)の代表的医学書『啓迪集』(1574)の題辞には以下のような記述がある。

  • 丹波家の三位と称される人に生まれながら医道の真髄を得た者がいる。名声は遍く功績は高く,しばしば比叡山は根本中堂の薬師如来を訪れ,屏風を隔て糸を引くことによって脈を取る方法を得た(啓迪集・拙訳*4

この「丹波家の三位」という人物はよく分からない。官医として有名な丹波宿禰家の三位法眼のうち誰かを指すのであろうが*5,この話は事実なのだろうか。

しかし,第一に,この記事が「曲直瀬道三は丹波家の三位に比肩する名医である」という文脈で表れるものであり,第二に,これは「前書き」に過ぎず他の診断法と並んで本文で記述されているものではなく,第三に,この題辞を寄せたのが周良という禅僧であり医者ではない,という点からすれば,これはせいぜい「逸話」に過ぎないと考えて良いと思う。聖徳太子が十人の話を聞き分けられたという伝承の類と同じことである。

実際,江戸時代の医家にして道三の研究で知られる奈須恒徳(1774-1841)はその著『本朝医談』(1822)の中で,「糸脈とて手に糸をつけて障子をへだてて病状をうかヾひ知よし俗間にいひ伝ふ。慥かなる証なし*6」とした上で,上述の『啓迪集』題辞を引いているのである*7

かくして,『啓迪集』の題辞は糸脈の存在を裏付ける史料となすことはできないという結論になる。

b. 多紀元簡『医賸』

多紀元簡(1755-1810)は,江戸時代に考証学派を大成させた漢方医学界の巨頭である。その最晩年期の書『医賸』(1909)は,医書というよりは随筆であるが,このことを正面から扱っている。

  • 世間では,翠竹翁(曲直瀬道三)が糸を引いて脈を診たなどと伝えているが,このことは未だ医書が述べるところではない。『襄陽県志』には…万暦帝太后が重病の折り,崔真人がお召しに応じ,御簾の孔より線を引いて脈を診た…と載せる。これは恐らく『西遊記』の孫悟空の事跡に因るこじつけであろう。(医賸・拙訳*8

前半部分,「このことは未だ医書が述べるところではない」とは,「道三が糸脈を用いたこと*9」を指すとも考えられるが,後半部分との関係からすれば「糸脈という診断法それ自体」のことと考えるのが妥当であろう。そうだとすると,糸脈という診断法を載せる医書はなかったということになる。

後半部分,『襄陽県志』であるが,省略部分によれば「崔真人」とは「雲を飛び越え月に至り(掃雲留月)」「壺の中の異世界に入り込む妙術を得た(得壺公妙術)」ような仙人であるから,事実とは信じがたい史料である。そして,『西遊記』の方は,おなじみ孫悟空の妖術であり*10,これも事実であるはずがない。

以上まとめると,多紀元簡によれば,(1)糸脈という診断法を載せた医書はなく,(2)これは小説や伝承の類から生じた俗説に過ぎないだろう,ということになるのである。

c. 紀宗直『宝石類書』

『宝石類書』は医書そのものではなく,18世紀の有職の大家,高橋図南(紀宗直)の手による故実書である。しかし,「医薬」という部立てで,医療に関する過去の記録を蒐集しており,医書に準じるものとしてここで取り上げる。

この『宝石類書』「医薬」部にも,「絲脉」という一項目が立てられている。しかし,この項目の記録として掲げられるのは小説『西遊記』の記事*11に過ぎない。そして,これに対する著者の意見として以下のような記述がある。

  • 宗直が思うに,俗に「糸脈を診る」ということがある。そこで,ここに(西遊記の記事を)記して,正しい指摘を待つことにする。(宝石類書・一部意訳*12

つまり,(1)糸脈という話はよく聞く,(2)しかし自分の調べた限りではちゃんとした記録はなく,(3)仕方がないので参考として『西遊記』を掲げる,ということである。

そして,この結論は,前掲『医賸』の記述とよく附合する。そうすると,診断法としての「糸脈」は架空のものであったと考えてよいのであろう。

d. 小括

以上,『啓迪集』『本朝医談』『医賸』『寶石類書』を検討した結果,「小説・伝承としてはともかく,現実の診断法として『糸脈』などというものは存在しない」という結論を導いて良いであろう。

わずか4書であるが,これは逆に言えば,数多い脈法に関する医書の中で糸脈について言及するのがこれだけしかないという意味で,糸脈という診断法が存在しないことの証左となるであろう。

3. 診脈の実態

前章において,「糸脈という診断法は存在しなかった」という結論が導かれた。このように糸脈という方法が使えないとすると,貴人に対する診脈はどのような方法で行われたのであろうか。そこには何か通常人とは異なる配慮があったのか。以下,検討する。

a. 三宝満済満済准后日記』永享6年6月9日条

とは言え,実際の診脈の具体的な手順を記した史料は少ない。この点,醍醐寺座主にして足利義満の猶子である満済(1378-1435),彼が永享6年(1434)に病を得た時の記事の中に詳細な描写がある。

  • 次に脈を取る。医師は「卓の上に柔らかい物を敷くべき」などと言う。そして,その通りに用意する。その後,左手を柔らかい物の上に置いて,医師は手を卓の上に置いて脈を取った。満済准后日記・拙訳*13

要するに,患者の手を布の上に置いて脈を取ったということであろう。このように詳しい描写があるのは,ここに出てくる医師が「唐人」であるため,満済にとって,そのやり方が物珍しかったためと思われる。そうだとすると,日本人の医師の場合どのように処置していたのか,気になるところではある。

いずれにせよ,満済では体に触れてはならない程の貴人とは思えず,本稿の目的からすれば,この史料はあまり参考にならない。

b. 中原康富『康富記』応永29年6月17日条

体に触れることを憚るような貴人と言えば,やはり天皇である。この点,称光天皇(1401-1428)が応永29年(1422)に病を得たときの記事にこのようなものがある。

  • 天皇に対して針治療を行うのは恐れ多いということなので,どうにも治療のしようがない」と言って,下郷という医師がもはや退出したいとのこと,三条中納言,中御門中納言,中山中納言などが,これをどう処置すべきか話し合っていた。そこに同じく清史が参上して,「我が国に針博士を置いているのは,このような場合のためであり,何で絶対に針を使っていけないと言うことがあろう」と申し上げた。これにより,所詮は医術という権道を用いるのだから*14,針治療も問題ないという評定が下った。そこで,下郷は針治療を行ったとのことである。(康富記・拙訳*15

ここから分かることは,(1)天皇の体に針を刺すことは恐れ多いことだという観念はあったが,(2)それでも命には代えられない,ということである。

これを我々の問題意識に適用すると,針でさえ刺すことが出来た,いわんや脈ととるをや,ということになる。実際,例えば,少し前の同月12日に「醫師二人参給御脈,進御薬」と何の問題もなく脈を取っている記事があるのである*16。もっとも,これが糸脈であり,あまりにも当然であるため何も書いていなかったという可能性も十分に考えられる。そこで,とりあえず(1)(2)の結論だけ確認して次の史料を検討することにする。

c. 和田東郭『蕉窓雑話』坤

和田東郭(1743-1803)は京都の名医にして折衷学派の泰斗である。その弟子の手になる聞書がこの『蕉窓雑話』である。
ここには脈診の心得が説かれているのだが,以下のような一説がある。

惶レナカラ上天子ヨリ下乞食ノ子ニ至ル迄,今日其苦ヲ救ヒ病ヲ除クニオイテハ其術一也ト云フ処ニ安心スヘシ。
(中略)
高貴方ニテモ,脉腹ハ勿論肩背腿脚ニ至ル迄,其診処ハ遠慮ナク,平人同様ニ精シク診候スヘシ。婦女ナトニテモ,トクト胸腹ヲクツロケサセテ,十分手ノ入ルヤウニシテ見ルヘシ。

(『蕉窓雑話』坤・2ウ*17。)

この見解がどの程度の一般性を持っていたかは解らないが,同書に従えば「天子」であろうと「婦女」であろうと胸・腹まで,医師が直接触っていたことになる。いわんや,単に腕の脈を取るだけにおいてをやということである。

d. 小括

さて,以上から結論できることは*18,確かに高貴な方の診察に対しては,当然ながら一定の配慮があったとしても,脈診をするのであれば,やはり直接体に触れていたらしいということである。

そもそも,漢方医学において,脈として診るべきところは,腕だけではない。仮に糸脈で腕の脈を診ることができたとしても,そこだけではあまり意味がない。しかも腕に糸を繋ぐのは医者ではなく素人なのである。これでどうやって診断しろというのであろう。このことは『類聚名物考』の引く『耆婆演義』でも指摘されている*19

そうすると,少なくとも中世・近世において,高貴な方に対しても,脈は医者の指で普通にとっていたと考えて良いであろう。すなわち,糸脈という診断法は現実には存在しなかったのである。

4. 糸脈の由来

これまでの検討で,糸脈という診断法は現実にはあり得ない,ということは明らかになった。

では,どこからこのような話が出てきたのであろうか。最後に,この点につきいて若干の検討を加えてみようと思う。

a. 加藤宣樹『南窻筆記』巻一

加藤宣樹(1825-1848)の随筆『南窻筆記』は,「〇 糸脈の事」と題して,以下のように考察する。

  • 世俗典藥は糸脈を知るという事,何に依てあやまり來る事ぞて考えれば,醫書に掌藥物知系脈云々,系脈の誤なるべし(南窻筆記・巻一*20

この説に従えば,「医者は系脈を知っている」ということが誤って「医者は糸脈を知っている」ということになったということになる。しかし,これは「医者は糸脈を知っている」という誤解が生じた理由とはなりえても,「糸脈」という診断法が創作された理由とはなりえないであろう。単に「糸脈」という単語があっても,それだけからは,その診断法の具体的な内容はでてこないからである。

b. 陳士斌『西遊真詮』第68回・第69回

この点,「糸脈」の内容を具体的に描写する資料として,いわゆる『西遊記』があることは,今まで取り上げた『不可有郷』,『医賸』,『宝石類書』,『類聚名物考』*21で指摘されることである。特に『不可有郷』においては,この『西遊記』が典拠ではないかと積極的に指摘されているのである。

以下は,『西遊記』のダイジェスト版でとしてもっとも著名な『西遊真詮』の訳文である。

 国王は御床に横たわったまま,
「面識のない者に診察をさせることはできないと言って,かの和尚を引き取らせよ」
 悟空は近習から,それを聞くと「もし面識のない者には見せぬとの仰せなら,わしは懸糸診脈の法を心得ている」
(中略)
 さて悟空は,近侍の宦官とともに皇宮の内院にはいり,寝殿の入口の外に立つと,近侍に,
「この三筋の糸をもって寝殿内にはいり,まず玉体の左の手くびの寸・関・尺の三つの部分につなぎ,先を窓格子から出して,わたくしに渡しなさい」
と,言いつけた。
 そして,糸の先を受け取ると,一本を右手の親指と人さし指にはさんで寸脈をみ,一本を中指と親指の間にはさんで関脈をみ,一本を親指と薬指にはさんで尺脈をみた。ついで,みずからの呼吸をととのえ,四気・五鬱・七表・八裏・九候・浮中沈・沈中浮を診さだめ,虚実のもとを見きわめた。そのあと,左手の糸をとかせて右の首に結びつけて,右手の指で,いちいち診察した。終わると,身を揺すって金糸をからだに収め,高々と呼ばわった。

(陳士斌『西遊真詮』第68回・第69回*22,太田辰夫・鳥居久靖訳*23

これは,まさしく糸脈の説明である。そうすると,この小説が「糸脈の由来」と言ってよいであろうか。

この点,日本における糸脈の初出である『啓迪集』題辞の筆者が,中国の明にも渡ったことのある禅僧であることが興味深い。というのも,中国において『西遊記』は慈恩宗など仏教集団を通じて広まったものであり,日本において中国の文学は五山の禅僧を通じて享受されていたものだからである。すなわち,彼が『西遊記』を読んでいた可能性が,それなりにあるのである。

もっとも,一口に『西遊記』と言っても時代によって内容が異なり,彼が『西遊記』を読んでいたとしても,その『西遊記』に上に載せたような糸脈の記事があったとは限らない。また,そもそも彼が『西遊記』を読んでいたかも確定できないし,仮に読んでいたとしても献辞に小説中の架空の技術を用いるかというと怪しいものがある。そうすると,これは一つの想像に過ぎないとすべきであろう。

f:id:hakuriku:20181001230439p:plain:w250
内閣文庫蔵『李卓悟先生批評本西遊記

とはいえ,この『西遊記』が初出でないとしても,『西遊記』の懸糸診脈の記事が,糸脈という架空の技術を広めるのに大きな役割を果たしたことは確かであろう。実際,『西遊記』の日本における受容,なかんずく庶民の間における普及を語る上で欠かせない『絵本西遊記』(三編・1835)という『西遊記』の抄訳にも,この懸糸診脈の記事が現れるのである*24

以上より,『西遊記』こそが「糸脈の由来」である可能性があり,そうでないとしても江戸時代の庶民の間に糸脈という概念を受容させる上で『西遊記』は重要な立場にあったと結論付けることができる。

c. 呉陵軒可有編『誹風柳多留』

前節では,日本における『西遊記』の普及が,懸糸診脈という概念を日本の庶民の間に広めるので大きな役割を果たしたのではないか,という推測を行った。

この「庶民の間に広める」というのが重要である。というのも,どうも糸脈という発想には,偉い人たちの世界の出来事に関する「ちまたのうわさ話」という雰囲気があるからである。

  •  糸脉で魚の名を知る釣上手(柳多留122)
  •  綻を頼み糸脈引いてみる(柳多留59)

このように近世の川柳では,糸脈という単語を当然の前提として使用しているものがある。このような用例を見ていると,糸脈という単語は一種の「都市伝説」として近世の庶民の間に既知のものだったのではないかとも思えるのである。

そして実際,前近代の世界にはこのような「都市伝説」を産む素地があったようなのである。

d. 曲直瀬玄朔『医学天正記』

曲直瀬玄朔(1549-1631)は曲直瀬道三の養子で,初代道三と共に日本医学中興の祖と称されている。『医学天正記』は,彼の経験に基づき多くの治験例を集めた書である。その中に,後陽成天皇に「灸治療」を行った旨の記事があるのだが,これが「糸脈という都市伝説」が生じた理由を考える上で,1つのヒントになるように思える。

すなわち,同書には「鬱」に関する治験例として,後陽成天皇に対する,「灸治療」は「先例がない」として許されなかったという記事が見える。

慶長3年9月1日
 後陽成天皇(28歳)が突然眩暈を生じた
(中略)
 10月の末,私は膏肓に灸を据えたいと思うと奏上した。(検討のために)貴族たちが集められた。古い記録を調査して,九条殿,二条殿,近衛殿は「先例はないがヨモギの灸を使って本復させること,医師の言うことももっともである。灸治療をさせも良い」という答申を出したが,一条殿,鷹司殿は「先例がない云々」と言って(反対した)。そのため,灸をすることができなかった。

(鬱二十・醫學天正記乾上・拙訳*25

他方,「癰疽」に関する治験例の記述のなかに,その後,「先例があった」という記録を見つけ出すことができたため,「灸治療」を実施することが許されたとする部分がある。

「外科医の岩倉梅陰庵と大徳寺玄首座の二人が宮中に参内し,縁側の上にて障子を隔てて,紙を破って穴から覗いてみたら,腫れ物の上に灸をしていた」
 慶長3年の秋,三日月の時,私は灸治療をしたいと思ったのだが,先例がないとして,果たせなかった。最近,中之院入道也足軒が古い記録から上の記事を見つけてきてくれた。そこで,これを奏上して今回,腫れ物の上に灸をした。これより灸治療を行ってよいということである。

(拙癰疽四十四・醫學天正記乾下・訳*26

これらの記事から第一に分かることは,(1)天皇に対しては,脈を取るのはともかく,灸を据えるなどというのには憚りがあったということである。これは前掲『康富記』に見える針治療の場合と基本的に同じ状況と考えて良いだろう。灸治療など恐れ多く,先例がない限り許されない行為のである*27

他方,この記事で特に興味深いのは,(2)外科医が診察するにあたって「障子を隔てて,紙を破って穴から覗いて」これを行ったとする部分である。この状況は,完全に糸脈による診察と類似する。

実際,この事跡を糸脈のことだと勘違いした「近代」の書物がある。

  • また有名な曲直瀬道三の書いた*28,「醫學天正記」の中に後陽成天皇を拜診した模漾を「破潰外醫(岩倉梅陰庵大徳寺玄首座)兩人参内,在縁上而隔障子破紙作穴視之,灸腫上。」と記している。これでは随分と隔靴の感があつたであろう。(絲脈の話・「話の大字典」第一巻・萬里閣・昭和25年・一部編集)

前近代には,文字通り雲の上の貴人の世界があった。そして,庶民はそこでの生活を想像でもってしか知ることが出来なかったのである。このような状況において,上に挙げた灸治療の事例のようなことが漏れ聞こえてきたら,人々の想像力はどのような方向に向かうであろう。

つまり,(1)一般人が想像をたくましくしてしまうような雲上人の世界が現に存在したこと,(2)そしてその雲上界では現実に一般人から見て異常なことが行われていたこと,これが「糸脈という都市伝説」が生じた理由の1つなのである。

e. 宇井正辰『医療瑣談』初篇上

そして,「糸脈という都市伝説」が生じたもうひとつの理由として考えられるのは,伝統的な東洋医学において,脈を診るということが非常に重視されていたということである。

  • 世間では,自分の技術を高く偽ろうとし,最初は,病人の方に,苦しいところを告げさせず,医者の方から,その脈を診て,逐一患うところを当てていくという者がいる。適当に言って,たまたま,一二の病気を言い当てると,患者はそれを凄いと思って,その医者を名医だと思ってしまう。患者の方でも,医者の技術を試そうと,症状を告げずに脈を取らせて,医者の方より症状を当てるよう願い出る者がある。(医療瑣談・拙訳*29

この記事にもあるように,名医であれば,脈だけから病気が分かっても不思議ではないとまで思われることもあったのである。

このような東洋医学の前提を共有する前近代人の間では,糸越しに脈を取るだけで診断ができると言われても,全くあり得ない話ではないと捉えられたと想像することができよう。

あるいは,自己の技術を誇ろうと,「自分は糸脈が出来る。」と公言したり,「彼は糸脈が出来る。」という噂を流させたりする医者もいたかもしれない。

f. 小括

糸脈という伝説の濫觴を特定することは,現段階では無理であろう。

その伝播過程において『西遊記』の記事が,大きな役割を果たしたであろうことは確かであるが,これが初出であるとまで言うことはできない。

しかし,いずれにせよ,この伝説が普及した背景には,(1)糸脈が行われても不思議ではない雲上の世界の存在と*30,(2)糸脈が行えたとしても不思議ではない東洋医学の伝統という,前近代東洋世界の特徴があったとは言うことができよう。

5. 総括

糸脈とは,全くの架空の診断法に過ぎないものである。

しかるに現代において,本当にこういう診断法があったと信じる人がいるのは,古代世界ないし東洋医術に対して現代人が感じる「ロマン」からなのであろう。

そして前近代において,本当にこういう診断法があったと信じる人がいたのも,貴族ないし医術に対して一般庶民が感じていた「ロマン」からなのであろう。

(了)

*1:この他に糸脈について言及する辞書として確認したものは,小学館大辞林小学館・古語辞典,小学館・言泉,岩波・広辞苑・第五版,岩波・岩波古語辞典,三省堂・新明解古語辞典,角川・角川古語大辭典など。いずれも項目中で,このような診療法の存在を否定しない。

*2:森銑三他編『随筆百花苑』第七巻所収・413頁。旧活字を新活字に改む。

*3:桃野自身も,前掲『無可有郷』中で「予醫所におゐて讀むところのものハ獨り傷寒論のミ。豈によく醫を論ぜんや」と自認している。

*4:原文「丹家嚮三位者生而淂醫髄矣飛英聲騰茂實時々造詣于艮岳中堂醫王善逝而隔屏牽絲之脉路」(大塚敬節・矢数道明責任編集『近世漢方医学書集成』(Vol.2, pp.2-3)の一部を改めた。).

*5:中野智玄(録事法眼)のことであろうか。後掲『本朝医談』は,『三位法眼伝』の著者と同一人物であろうとする。

*6:大塚敬節・矢数道明責任編集『近世漢方医学書集成』(Vol.40, pp.371-372)の一部を改めた。

*7:ただし『本朝医談』では,「啓迪集序」として引用し,また一部脱落がある。

*8:原文「世傳翠竹翁引絲診脈。此醫書所未言。襄陽縣志。載崔眞人名孟傳。北水關人。從族兄授醫學。掃雲留月。直得壺公妙術。萬暦朝。太后病篤。眞人應召。詔自簾孔引線候脈。投劑立愈。上賜官賜金。皆不受。遂賜以眞人號。後於武當蛺化。自號朴菴。此恐因小説西遊記孫悟空之事傅会事」(『医賸』巻中・東京大学総合図書館蔵・請求記号V11-828・返り点等省略)

*9:この伝承自体は,前掲『啓迪集』題辞が誤り伝わったものであろうか。

*10:詳しくは後述するが,前掲『無可有郷』に引かれていたものと同じで,第68・69回に見える記事のことである。

*11:「朱紫國王睡在龍牀上傳旨我見不得生人面哩□行者道我會縣絲診脈(中畧)即伸手抜了三根毫毛即變作三條絲線毎條長二丈四尺按二十四氣托於手内(中畧)直寝宮門外立定将三條金與官線與官弇入裏面分付先繋在聖躬左手腕下按寸開尺三部上却将線頭從牕櫺兒穿出行者接了線頭以右手著自□左手三指看了寸關尺三部脉調停自家呼吸分定四氣五鬱七表八裏九候浮中沉沉辨明了虚實之端又教解下左繋在右手腕下部位行者以右手指一々看畢却将身一斗把金銀収上身來(『寶石類書』巻百十五・十九頁・東京大学附属総合図書館蔵。字体は適宜改めた)」。これは,おそらく『西遊真詮』を引用しているのであろう。「(朱紫)國王睡在龍牀上近侍的傳旨那和尚教他去罷説我見不得生人面哩行者道若見不得生人面呵我會縣絲診脈…即伸手抜了三根毫毛即變作三條絲線毎條各長二丈四尺按二十四氣托於手内…直寝宮門外立定將三條金線與宦官拿入裏面分付先繋在聖躬左手腕下按寸開尺三部上却將線頭從牕櫺兒穿出行者接了線頭以右手着自巳左手三指看了寸關尺三部之脉調停自家呼吸分定四氣五鬱七表八裏九候浮中沉沉中浮辨明了虚實之端又教解下左繋在右手腕下部位行者以右手指一一看畢却将身一斗把金線収上身來(第68回〜第69回,東京大学附属総合図書館蔵・悟一子『西遊真詮』第68回31頁〜第69回35頁)」

*12:原文「宗直按俗ニ縣脉ヲミルト云フヿアリ故ニ爰ニ記シテ本□ヲ得ルヲ俟」(ただし,「縣」は原文のママ,「ト云フ」「シテ」は原文は合字である。「□」,また原文に「脱」と注がある。『寶石類書』巻百十五・十九頁・東京大学附属総合図書館蔵.).

*13:原文「次取脉。卓ノ上ニヤハラカナル物ヲ可敷云々。仍可(如イ)然用意。其後左手ヲヤハラカナル物ノ上ニ居テ。醫師手ヲハ卓ノ上ニ居テ取之了。(『満済准后日記』永享6年6月9日条。『続群書類従』補遺1-2所収・586頁).

*14:日常の養生によって健康を保つのが王道であり,医術を用いること自体が邪道であるとの認識である。なお続く部分で「本道之醫師中(ニ)當時無針之名誉,可云道之零落歟」とあるように,権道たる医術の中でも針治療の方がより邪道であるとの認識もあったようである。

*15:原文「下觶(シモノコウ)ト云醫師ヲ被召進之,御針ヲハ玉體(ニ)憚之間如何可仕哉之由申,旣下觶欲退出之間,三條中納言,中御門中納言,中山中納言等談合ありて,此事如何可然哉云々,芿史同参候云々,本朝針博士被置者,加漾時御用爲也,何事ニ必不可針進之由可申哉,所詮爲権道之間,御針不可苦歟之由各評定被申了,仍ノ上ニヤハラカナル物ヲ可敷云々。仍下觶御針ヲタテマイラスト云々(『康富記』応永29年6月17日条。『史料大成』康富記1所収・296-297頁).

*16:なお,脈を取る記事は同月6日にもある。

*17:東京大学附属総合図書館蔵・V11-1413(ただし,句読点を付し,一部字体を改めた。なお,通用の五巻本とは異本のようである。

*18:これだけの史料で時代的に幅のある話に結論を出そうとするのは,無理にも程があるので,とりあえずの見通しに過ぎない。

*19:『類聚名物考』巻329・雑部四・医薬・糸脉,原文「七曰古來名醫手の三部に糸をかけて脉理を診省す送王も亦しからん耆婆答云しかり此言あり但送の診するところ手足面上数十所有り只手の脉にて三部をうかかふことハ重衣縛らるに起り糸その醫に示すの庸易なるにゐ(本マゝ)見り糸をかくるか如きは抑亦末なる哉況や三部に糸する他人の繋ぎたるを診に用かたし云々」。ただし『耆婆演義』の書名は『類聚名物考』にしか見えず不詳。なお,「耆婆(Jivika)」とは,仏典に出てくるインドの伝説的な名医のことである(ここでも「伝説」である)。

*20:加藤宣樹『南窻筆記』巻一・国書刊行会「百家随筆」第二所収・391頁

*21:先の注で引用した部分に続いて「●西遊記にも似たる事有りしか」とある。

*22:原文「國王睡在龍床上叫近侍的傳旨那和尚教他去罷説我見不得生人面哩行者道若見不得生人面呵我會懸絲診脉」,「話表大聖同近侍宦官到於皇宮内院直至寝宮門外立定將三條金線與宦官拿八裏面分付先繋在聖躬左手腕下按寸關尺三部上却將線頭從牕櫺兒穿出行者接了線頭以右手托着自巳左手指看了寸關尺三部之脉調停自家呼吸分定四氣五鬱七表八裏九候中沉沉中浮辨明了虚實之端又教解下左手繋在右手腕下部位行者以右手指一一看畢却將身一抖把金線收上身來高呼」(ただし,東京大学総合図書館蔵・悟一子『西遊真詮』第六十八回・三十二頁,三十五頁の一部字体を改める。).

*23:太田辰夫・鳥居久靖訳『西遊記(下)』・「中国古典文学大系」第32巻所収

*24:『繪本西遊記』三編巻之七冒頭「話表行者は近侍に伴れて皇宮内院に入寝宮に到り門外に立て三條の金線を官員に與へ教て是を聖躬の左の手の寸脈関脈尺脈三部の上に著させ線の頭を格子より引出させ行者右の手に是を掣左の三指を以て寸関尺の三部の脈を試み又教て右の手三部に是を著させ行者左の手を用ひて件一是を試み終に毫毛を以て我身に返し郄色に稟しけるは」(文化6年刊・東京大学付属総合図書館蔵・E24.44.6)。なお,有朋堂文庫本版では「話表行者は,近侍に伴はれて皇宮内院に入り,寝宮に到り門外に立つて,三條の金絲を官員に與へ,教へて是を聖躬の左の手の寸脈關脈尺脈三部の上に著けさせ,線の頭を格子より引出させ,行者右の手に是を掣り,左の三指を以て寸關尺の三部の脈を試み,又教へて右の手三部に是を著けさせ,行者左の手を用ひて件一是を試み,終に毫毛を以て我身に返し,高聲に稟しけるは」とする。

*25:原文「今上皇帝(御年二十八歳)俄然而眩暈・・・十月之末予奏上,欲灸膏肓,有詔摂家名家,見尋舊記,九條殿二条殿近衛殿,御答雖無舊記,以艾灸本復,醫師奏, 上之旨分明,可被灸治,一條殿鷹司殿御答者,無舊記云々,故不能灸」(鬱二十・醫學天正記乾上・新加別記第七十八・改訂史籍集覧所収).

*26:原文「○破潰外醫(岩倉梅陰庵大徳寺玄首座)兩人参内,在縁上而隔障子,破紙作穴視之灸腫上。慶長三年之秋,御腦之時,予欲灸治,依無其例不能灸,頃中院入道也足軒,觀出舊記而奏上,依其今灸腫上,自今已來可有灸治之勅意也(癰疽四十四・醫學天正記乾下・新加別記第七十八・改訂史籍集覧所収).

*27:婦女に触診を憚るというのは「恐れ多い」とはちょっとニュアンスが違うかもしれない。なお,大田南畝 『一言一話』巻15(日本随筆大成・新装版・別巻2・301頁)に,「同書(寿世青編)ニ,法婦人疾有不能尽聖人之法者,今富貴之家,居奥室之中,処帷幔之内,甚又以帛幪手臂。既不能行望色之神,不能殫切脉之巧。四者有二欠云々,是れ今の絲脈をとるなどいふの類なるべし」とあるのも参考になろう。

*28:引用注:この部分も誤りであろう。

*29:原文「世ニ人ヲ欺テ己カ技術ヲ高クセントテ病人ヲシテ先ツ苦ム所ヲ告ルコトナカラシメ其脉ヲ察シテ一々患ル所ヲ此方ヨリ言フト云者アリ杜撰ニ偶一二ノ症ヲ言ヒ中ルヲ病家ソレヲ奇ナリトシテ名医ト思ヘリ亦病者モ医ノ巧拙ヲ試サント症候ヲ告ケス脉ヲ切シテ医ヨリ症候ヲ謂ンコトヲ乞フ者アリ(醫療瑣談・初篇上・四診・東京大学総合図書館蔵・鶚醫165・V11-831・9ウ・10オ)」

*30:逆に、江戸幕府奥医師という雲の上の存在が、庶民の脈をとる際、「ふくさをかけたてその上から脉をとった」という逸話の伝えられている(今泉みね 『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』,東洋文庫,46頁~47頁)。

各記事の内容は,事前・事後の告知なく修正・削除されることがあります。

投稿されたコメントも,事前・事後の告知なく削除されることがあります。

実験的にGoogleアナリティクスによるアクセス解析をしています。

☞ 1st party cookieによる匿名のトラフィックデータを収集します。