帝王切開の語源に関する覚書(2)

.中世ラテン語

そして,この「sectio caesarea」という語句が,ローマ時代の生粋のラテン語ではなく,中世になって作られた中世ラテン語であることは確かのようである。

というのも,ラテン語辞典ほか各国語の辞典を見ても,「sectio caesarea」のローマ時代の用例を載せるものはないからである。そして,むしろ逆に「mlat. sectio caesarea」などとして,これが中世ラテン語であることを明記している辞書は少なくない*1

そうすると,次に問題になるのは,「sectio caesarea」という語句が,中世になって新たに造語されなければならなかった経緯である。

この点,英仏独において「帝王切開」に相当する語句が初めて使われたのが16〜18世紀であり*2 ,生きた妊婦に対する帝王切開が最初に成功したのも16世紀であることが示唆的である*3

この2つのことが何を意味するかについて,立川清編『医語語源大辞典』が明快に語っている。

16世紀に生きている妊婦に帝王切開が行われるようになって,名称も必要になりcésarienというフランス語が作られ,やがて英語に,ついでドイツ語に伝わったのではないでしょうか.この間にラテン語化したsectio caesareaも作られたことでしょう.

(立川清編「医語語源大辞典」644頁)

要するに,16世紀に「帝王切開」手術が可能になったため,その正式名称として,16世紀の医学者が「sectio caesarea」というラテン語を新たに造語したということである。最近になって発見された新種の生物に,生物学者ラテン語の学名を造語するのと同じである。

そうすると,「sectio caesarea」の語源問題は,結局,それに先行するフランス語「opération césarienne」を造語した16世紀の医学者が,どこから「césarienne」という単語を持ってきたかという問題に帰着することになる。

ラテン語「caesar」

ここで注目したいのは,『Lexis仏語辞典*4』などフランスの辞書の多くが,フランス語「opération césarienne」の語源を,「手術により母の腹から引き出された胎児(enfant tiré du sein de sa mére par incision)」を意味するラテン語「caesar」であるとすることである。

CÉSARIENNE  [sezarjɛn]  adj. et n. f. (du lat. caesar, enfant tiré du sein de sa mére par incision, de caedere, couper; v.1560)

Lexis : dictionnaire de la langue francaise / CÉSARIENNE*5

そうすると,16世紀の医学者は,既に存在した「手術で生まれた胎児(caesar)」というラテン語の存在を前提に,帝王切開とは,「caesar」を「切り出すこと(sectio)」であるとして,「sectio caesarea」という語句を造語したということになる*6

そして,さらに同書に従えば,このラテン語「caesar」は「切る(couper)」を意味するラテン語「caedere」に由来するというのであるから,「sectio caesarea」の語源は何かという当初の問題に対する回答は,ラテン語「caedere」に由来するという第2説になる。

確かに,動詞「caedere」から派生した準動詞「caesum」>「caeso」に基づき,「切られたもの」を意味する名詞「caesar」が生じ,それが特に「(母の子宮から)切られた者」の意味に限定して用いられるというのは,ありそうな話に思える。第2説を採用すべきなのであろうか。

もっとも,帝王切開で生まれた胎児を意味する「caesar」というラテン語が,本当にラテン語「caedere」に由来するかということについて,興味深い反対資料があるので,次に紹介する。
続く

*1:例えば,「Duden : das grosse Worterbuch der Deutschen Sprache : in acht Banden / herausgegeben und bearbeitet vom Wissenschaftlichen Rat und den Mitarbeitern der Dudenredaktion unter der Leitung von Gunther Drosdowski ; [Mitarbeiter an diesem Band, Maria Dose ... et al.]. - 2., vollig neu bearbeitete und stark erw. Aufl. - Mannheim : Dudenverlag , c1993-c1995.」,あるいは「Brockhaus Wahrig : deutsches Worterbuch in sechs Banden / herausgegeben von Gerhard Wahrig, Hildegard Kramer, Harald Zimmermann. - Wiesbaden : Brockhaus. - Stuttgart : Deutsche Verlags-Anstalt , 1980-1984.」など。

*2:例えば『O.E.D. 2nd ED.』によれば英語「Caesarian section」の初出は「Body of Man (1615 Crooke)」であり, 『Trésor de la langue française』によれば,仏語「section cesarienne」の初出は「A Dictionarie of the French and English Tongue (R.Cotgrave, 1611)」であり,『Etymologisches Worterbuch der deutschen Sprache (F.Kluge)』によれば独語「Keiserschnitt」の初出は「Chrurgie(L.Heister, 1739)」であるとのことである。ただし,「A Dictionarie of the French and English Tongue (R.Cotgrave, 1611)」については,リンク先の画像を私が見た限りでは確認できなかった。

*3:立川清編『医語語源大辞典』644頁によると,1500年ころのBauhinの例,ないし16世紀のGuillemeauの例が,記録される最初の帝王切開であるとのことである。

*4:Lexis : dictionnaire de la langue francaise / [direction de Jean Dubois]. - Paris : Larousse , c1975.

*5:Lexis : dictionnaire de la langue francaise / [direction de Jean Dubois]. - Paris : Larousse , c1975.

*6:もっとも,「caesar」から「casarea」に変化した理由はよく分からない。

*7:活用医語新字典 / 竹村文祥著. - 東京 : 南江堂 , 1964.

各記事の内容は,事前・事後の告知なく修正・削除されることがあります。

投稿されたコメントも,事前・事後の告知なく削除されることがあります。

実験的にGoogleアナリティクスによるアクセス解析をしています。

☞ 1st party cookieによる匿名のトラフィックデータを収集します。