「ゑ」だから「YEBISU」なのではない。

.問題の所在

2月25日付け「Excite Bit コネタ」の記事は,エビスビールが「EBISU」ではなく,「YEBISU」と書かれる理由について,以下のように結論付ける。

ただ昔の人は、「ゑ」を「YE」と書くことが多く、それが現在でも踏襲されているものがあるといったところが本当のところかな。

この記事は,ほかにも突っ込みどころの多いのだが*1,少なくとも,「恵比寿」を「ゑびす」と仮名表記することと,「恵比寿」を「YEBISU」とローマ字表記することとの間に,特別の関係はない。

.中世の「え」「ゑ」「へ」は,すべて「ye」と発音されていたこと

まず,中世の日本語においては,「ゑ」のみならず,「え」についても,「ye*2」と発音されていた。したがって,仮に,「恵比寿」の仮名表記が,「ゑびす」ではなく,「えびす」であったとしても*3,その古いローマ字表記は,「yebisu」とならざるをえない。

「え」「ゑ」「へ」の発音の変遷*4
時代 *5
奈良時代以前 e*6 ye*7 we fe*8
平安初期以降 ye we fe
平安後期以降 ye we
平安末期以降 ye
江戸中期以降 e

実際,中世のポルトガル人宣教師が書いた『日葡辞書』(1603-1604)には,「E」で始まる項目がなく,「ぼし(烏帽子)」は「yeboxi」,「かき(絵描き)」は「yecaqi」,「やのしほかぜ(八重の潮風)」は「yayeno Xioucaje」などと,すべて「ye」と表記されている*9

このことは,Excite Bitの前掲記事が,参考として紹介するサッポロビール自身の説明からも素直に読める事実であって,Excite Bitの記者は,何かを勘違いしてしまったようである。

.「恵比寿」を「ゑびす」と書くのは,当て字にすぎないこと

また,そもそも,「恵比寿」の旧仮名遣いは,「えびす」が正しいのであって,「ゑびす」と書くのは,語源・発音を無視した当て字にすぎない。f:id:hakuriku:20181019073247p:plain:w150:right

一般に,「恵比寿」の語源は,「夷(えびす)」「蝦夷(えびす)」とされる。もちろん,本来,「夷」「蝦夷」とは,蔑視の対象となる異人を指す言葉である。しかし,これが,「異郷から流れ着く神」というモチーフ(漂着神信仰)と結びつき,「えびす様」として,特定の神の指す言葉になったのである*10

そして,「夷」「蝦夷」の正しい仮名遣いが「えびす」である以上*11,それと同語源の「恵比寿」についても,「えびす」と表記するのが本来である*12

「えびす様」を,平仮名で「ゑびす様」と書くことが一般化したのは,「えびす様」を,漢字で「恵比寿様」と書くようになってからのことと思われる。「恵」の旧仮名遣いは,「ゑ」であるから(或いは,「恵」という漢字の草体を元に「ゑ」という平仮名が作られたのだから),「えびす様」に対し,「恵比寿様」という当て字をするのは,おかしいようにも思える。しかし,前項で説明したように,中世以降,「ゑ」と「え」の発音上の区別は消滅していたため,この点は問題とならなかった*13

そして,いったん「恵比寿」という書き方が定著してしまうと*14,「恵」の本来の仮名遣いである「ゑ」に引かれ,「えびす」ではなく,「ゑびす」と仮名書きすることが一般化したようなのである*15

.結語

要するに,エビスビールが「YEBISU」と書かれる理由は,前掲サッポロビール自身の説明どおり,単に,古いローマ字表記が残っているからにすぎない。「ゑ」だから「YEBISU」というわけではないのである。

*1:この記事の筆者が,「ゑ」が,「ye」ではなく「we」であること,「江戸」が,「ゑど」ではなく「えど」であることに気付いているのか疑問である。

*2:本来であれば,[je]などと書くべきところであるが,分かりやすさを優先する。以下,同じ。

*3:実は、後述のとおり、「恵比寿」の仮名表記は,「ゑびす」ではなく、「えびす」とするのが本来である。

*4:通説的見解を簡単にまとめたものであって,正確性は低いことに注意されたい。なお,山口明穂・他著『日本語の歴史』(東京大学出版会),佐藤武義・編著『概説日本語の歴史』(朝倉書店)を参考にした。

*5:ただし,語中語末の「へ」である。

*6:万葉仮名で「榎・可愛・荏・得・愛・哀・埃・衣・依」と書かれる「え」である。

*7:万葉仮名で「兄・柄・枝・吉・江・延・曳・睿・叡・遥・要・縁・裔」と書かれる「え」である。

*8:ただし,「e」の音には甲類と乙類の別がある。また,さらに古くは,「f」ではなく「p」であったと言われる。

*9:土井忠生・他編『邦訳日葡辞書』(岩波書店)による。

*10:暮らしのことば語源辞典 / 山口佳紀編. - 東京 : 講談社 , 1998.5. / 恵比寿(金子彰・担当).

*11:『新撰字鏡』(898-901)には,「蝦夷 衣比須」とある。

*12:日本国語大辞典 / 日本国語大辞典第二版編集委員会, 小学館国語辞典編集部編. - 第2版. - 東京 : 小学館 , 2000.12-2002.12. / えびす【夷・蝦夷・戎】,えびす【恵比須・恵比寿・夷・戎・蛭子】.

*13:それどころか,当時の日本人は,「え」と「ゑ」が,かつては別の発音であったことさえ知らなかったのではないかと思われる(馬渕和夫『五十音図の話』)。

*14:前掲『日本国語大辞典』の当該項目によると,江戸時代には,「夷」「蝦夷」と「恵比寿」は別語として認識されていたとのことである。

*15:前掲『日本国語大辞典』,『暮らしのことば語源辞典』を参考にした。

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