国乱れて忠臣現る
上記の記事は,id:finalvent氏が,民主党の小沢一郎氏が,日経ビジネス記者の「日本にリーダーは登場しない?」という問いに対し,「『国乱れて忠臣現る』と言うでしょう。」と答えたことについて,「小沢さん、古典の教養は、なし」と評するものである。
同記事のポイントは,①「国乱れて忠臣現る」の典拠が,『史記』魏豹彭越伝の「国家昏乱、忠臣乃見」ではなく,『老子』第十八の「国家昏乱有忠臣」*1であることを前提に,②『老子』の当該語句は,「国家が混乱したときに、あいつは貞臣だとかいう偽物野郎が出てくる。」という文脈で用いられていることを指摘することにある。
しかし,前記①の点について,「国乱れて忠臣現る」の典拠を『史記』魏豹彭越伝とする辞書は少なくない*2。例えば,『日本国語大辞典』は,以下のように記載し,これを前提に,まさに小沢氏の使いたかったであろう意味を載せる。『成語林』や『成語大辞苑』を見ても,同旨の記載がある。
くに乱(みだ)れて忠臣(ちゅうしん)=現(あら)る[=が知(し)れる] (「史記−彭越伝」の「国家昏乱、忠臣乃見」から)国家が混乱して危機に瀕すると,真に忠義の臣が現われる。
確かに,『史記』の原文は,「国家昏乱」ではなく,「天下昏乱」のようであるから,「国乱れて」と引用してしまうのは不正確かもしれない*3。しかし,人口に膾炙した成句は,正確に引用されないのが通常である。例えば,「井の中の蛙,大海を知らず。」の原文は,「井鼃不可以語於海者拘於虚也」(荘子・秋水篇)である。少なくとも,複数の辞書が載せる用例に従った使用に対し,同記事のように「ちょっとムリめ」と評するのは無理であろう*4。
そして,さらに声を大にして指摘したいのは,前記②の点について,『老子』を典拠とする成句であるからといって,必ずしも『老子』と同じコンテキストで使用しなければならないわけでもないことである。実際,『史記』の当該文句自体,『老子』の当該文句を典拠としていると考えられる(史記索隠)。『詩経』が換骨奪胎されて受容された例を挙げるまでもなく,古典においても,原典の文脈を離れた引用は珍しいことではなく(断章取義),そのことをもって,「古典の教養は、なし」と断じるのは極めて違和感がある。
いずれにせよ,小沢氏の用法が誤りであると切り捨てるのは難しいように思う。