重複表現に関する若干の考察
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重複表現を考えるに当たっては,「意味の重複」のほかに,「漢字の重複」という概念が必要であるように思う。例えば,「『違和感を感じる』に違和感」(観測気球)という記事は,「違和感を感じる」という表現について,「違和感を覚える」の方がよいのではないかとする。「感じる」と「覚える」の意味の違いはともかく,「感」という漢字の繰り返しを回避したいというのであれば,「漢字の重複」を問題視していることになる。また,この記事の続編では,「歌を歌う」を言い換えるとすれば,「歌を唄う」ではないかとされている。「歌う」と「唄う」の語義の相違は考慮されておらず,まさに「漢字の重複」を避けただけである。
しかし,「漢字の重複」が必ずしも重複表現とならないことは,「
例えば,「馬から落ちて落馬した」の場合,「意味の重複」が決定的な問題であって,「漢字の重複」は二次的なことにすぎない。「ぐっすり眠って熟睡する」の場合,「漢字の重複」はないが,「意味の重複」は明らかである。「落馬」の定義が「馬から落ちること」であり,「熟睡」の定義が「ぐっすり眠ること」であるから,いずれも完全に意味が重複しており,無意味な繰り返しである。しかし,「漢字の重複」もあるため,「馬から落ちて落馬した」の方が,その重複感は際立っている。
2
応用問題として,「後で後悔する」という表現を考えてみる。この表現は,「後」という「漢字の重複」によって,重複感が際立たされている。しかし,先述のとおり,「漢字の重複」は,当然に「意味の重複」を意味しない。しかも,大和言葉の「
他方,「後で後悔する」の言い換えとして,「後で悔やむ」という言い方が提唱される場合がある。しかし,「悔やむ」という言葉は,「後で残念に思う」と定義することができるように,その言葉自体に「後で」という趣旨が含意されてしまっている。したがって,「後で悔やむ」と言い換えたところで,「後で,後で残念に思う」という意味になってしまうのであって,「漢字の重複」を回避しても,「意味の重複」を回避しきれてはいないと考えることもできるのである。
このように考えると,およそ重複を避けるというのは不可能であり,そもそも重複とはいかなることをいうのかも定かでないような気がしてくる。「天皇が行幸する」は重複表現であろうか。あるいは,「源」という字には「さんずい」があるから,「水源」という熟語は重複表現なのであろうか(参考)。これ以上は,先行研究を調べるべきであろう。
いずれにせよ,それでもやはり明らかな重複には「違和感を感じる。」と言わざるを得ないことも確かである。このような問題を突き詰めていくと,ほかの数多の国語論と同様,深刻な民族対立が引き起こされるのである。
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ところで,「頭痛が痛い。」は,重複表現の仲間に入れるべきなのであろうか。「頭が頭痛だ。」が重複表現であるのは分かる。しかし,「頭痛が痛い。」というのは,「激痛が痛い。」と同じ構造であり,主述が対応していないという点で,別の種類の誤謬とすべきではなかろうか。これが重複表現であるかのように感じてしまうとすれば,その原因は,まさに「漢字の重複」による重複感にあるのであろう。