元号の変わり目(1)

第1.問題の所在

1912年7月30日午前0時43分,明治天皇崩御された。即位した大正天皇は,直ちに,「明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス」とする詔書を発布し,大正に改元した。それでは,1912年7月30日は,明治なのであろうか,大正なのであろうか。同様に,大正天皇崩御された1926年12月25日は,大正なのであろうか,昭和なのであろうか。

考え方としては,[1]改元日の午前0時に遡って新元号が適用されるべきである(午前0時説),[2]新帝の即位時で区切って新元号が適用されるべきである(新帝即位時説),[3]改元詔書発布の瞬間から新元号が使用されるべきである(詔書発布時説),[4]改元日の翌日から新元号が使用されるべきである(翌日説),[5]改元日は新旧いずれの元号が使用されても正式である(改元日併用説)などがあり得る。

簡単に答えるのであれば,政府の通達等のレベルで,大正元年内閣送第30号内閣書記官長回答*1が,国定教科書の記載について,新帝即位時説を採用していたこと,大正元年民事第62号司法省民事局長通牒*2が,司法行政事務に関する文書について,翌日説を採用していたこと,大正元年官房第1420号海軍省文書*3,昭和2年秘第29号司法省刑事局長通牒*4が,即位に伴う大赦令の解釈について,午前0時説を採用していた可能性があること,昭和39年9月17・18日高知地方法務局管内戸籍住民登録事務協議会連合総会決議*5が,戸籍事務について,改元日併用説を採用していたこと,昭和42年7月3・4日福岡連合戸籍住民登録事務協議会決議*6が,同じく戸籍事務について,午前0時説を採用していたことなどを指摘することができる。

また,当時の学説としては,美濃部達吉*7宮沢俊義*8が新帝即位時説を主張しており,芝葛盛*9詔書発布時説を主張していたこと,最近の論争としては,深谷博治*10,橋本義彦*11が新帝即位時説を主張しており,高橋茂夫*12が午前0時説を主張していたことなども指摘に値するであろう。

しかし,この問題を理解するには,古代から問題とされていた改元の年始遡及効,近代から採用された一世一元の制度の趣旨などに遡って検討する必要があるであろう。
続く

*1:文部省『文部省例規類纂』第3巻・847頁(国立公文書館・公文類聚・第36編・第12巻・件名番号13)。

*2:法務省民事局『登記関係先例集』上・325頁・433号。

*3:高橋茂夫「明治以来の元号」(日本歴史・253号・117頁)・124頁参照。

*4:国立公文書館・「恩赦制度審議会に関する件・総理庁官房総務課長」・「大赦令施行に関する心得抜粋(昭和2.1.29刑事局長通牒秘第二九号)(昭和23.3.6検総印)、減刑令施行に関する心得抜粋(昭和2.1.29刑事局長通牒秘第二九号)(同)、復権令施行に関する心得抜粋(昭和2.2.19刑事局長通牒秘第六六号)(同)」。

*5:日本加除出版出版部『親族、相続、戸籍に関する訓令通牒録』・5624号。

*6:日本加除出版出版部『親族、相続、戸籍に関する訓令通牒録』・1078号。

*7:美濃部達吉憲法撮要』・204頁。

*8:宮沢俊義『皇室法』(新法学全集・第1巻)・23頁,『憲法略説』・82頁。

*9:芝葛盛『皇室制度』(岩波講座日本歴史・第10)・14頁。

*10:深谷博治「元号存続,いまや時代錯誤」(朝日新聞昭和43年10月29日朝刊5頁・声)。

*11:橋本義彦「改元雑考」(日本歴史・300号・208頁)。

*12:高橋茂夫「明治天皇崩御は『大正元年』」(朝日新聞昭和43年10月20日朝刊5頁・声),「明治以来の元号」(日本歴史・253号・117頁),「元号の境目」(日本歴史・305号・84頁)。

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