元号の変わり目(2)

第2.伝統的な議論 − 大化から慶應まで

.年始説と改元日説

そもそも,1912年7月30日が,明治なのか,大正なのかという問題提起は,改元の日を基準に改元の効果が生じること,言い換えれば,改元の前日,7月29日は,当然に明治であり,改元の翌日,7月31日は,当然に大正であることを前提としている(改元日説)。

常識的な理解のようにも思えるが,大化から慶応まで,伝統的な改元において,そのことは自明でない。改元の効果は,改元の年の年始に遡及し,新元号は,改元の年の1月1日に遡って適用されるという有力な見解があるからである(年始説)*1

この見解の重要な論拠は,大正,昭和の改元詔書が,「大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」などと日単位で記載しているのに対し,慶應以前の改元詔書が,「改貞観十九年,為元慶元年」などと年単位で記載していることである。『続日本紀』など,正史における日付の記載が,年始説に整合的であることも指摘に値するであろう*2*3

しかし,反対説も譲らない。改元詔書の記載は,単に「大まか」に書いた書式が慣用となったにすぎず*4,現に,慶應以前でも,「宜改天平勝宝九歳八月十八日,以為天平宝字元年」と日単位で処理した事例がある*5,『続日本紀』の記載は,日付を整理する上での「便法」にすぎず*6*7,実際,改元日説を基本にして整理された史書として,『類従国史』を指摘することができるというのである*8

.宮廷官人の意識

年始説と改元日説の相違は,遅くとも平安時代には意識されていたようである。『台記』天養元年6月23日条には,中原師安が,「永治二年」(=康治元年)と記したことについて,藤原頼長が,年始説の立場から,「康治元年とすべきではないか。」と指摘し,師安が,改元日説の立場から,「中国の方式(春秋の義)*9によれば康治元年とすべきだが,日本の方式(本朝の例)によれば永治二年とするものである。」と答えたという逸話が伝えられている*10

確かに,例えば,『日本後紀』が主張する「大同改元非礼論」は,改元日説を前提にしなければ理解することができない。「大同改元非礼論」とは,桓武天皇崩御を受けて即位した平城天皇が,即位後,年が改まるのを待つことなく大同と改元したことについて(立年改元),先帝の残年を分かち(分先帝之殘年),一年に二君を立てることになってしまう(一年而有二君)とする批判である*11。年始説の発想によれば,先帝の残年を分かつどころか,先帝の治世が新帝によって上書きされてしまうという批判になるはずであるから,この批判は,改元日説の発想に立つということができる。

しかし,実際のところ,各種史料を検索するに,改元説によるか,年始説によるかは,同一書中においても一定しないことが少なくない*12。この点,幕末宮廷の故実を知る羽黒敬尚は,本来は改元日説によるべきであるが,「漠然という時には」,年始説によるのが例であるという(『幕末の宮廷』*13)。実務的には,改元説によるか,年始説によるか,必ずしも拘っていなかったというのが本当のところなのであろう。

.政府官僚の見解

近代になって,この点について,政府が一定の見解を示す必要を迫られた場面があった。戸籍事務の現場から,司法省法務局長に対し,出生の日の記載について,従来は年始説によってきたが,本来であれば,改元日説によるべきではないかとの問合があったのである。同問合は,年始説による場合,1年に2度の改元があった場合,最初の改元による新元号が存在しないことになってしまい「甚タ不都合」ではないかというのである(大正6年3月4日第529号大阪区裁判所監督判事問合*14)。

これに対し,司法省法務局長は,司法次官を通じて内閣書記官長に照会し*15,内閣書記官長は,内閣法制局長に照会した。そして,内閣書記官長は,法制局長の回答に従い*16,司法次官に対し,特に理由を示すことなく,改元日説によるべきことを回答した(大正7年10月3日内閣書記官長回答*17)。

ところが,司法省は,内閣書記官長の回答に従わず,前記問合に対し,「歴史學者ノ意見區々ニ渉リ歸一ノ解釋ヲ定ムルコトハ至難」であり,いずれの説によっても実質は変わらないのであるから,従前の慣例(年始説)に従い,戸籍全体の記載を統一すべきとした(大正7年12月3日民第2165号司法省法務局長回答*18)。想像であるが,司法省は,改元日説に理があるにしても,従前の戸籍を全て訂正するのは不可能であるし,年始説と改元日説が混在しては,戸籍の統一性を損なってしまうと考え,実務の便宜上,年始説を維持したと考えることができる。

戦後になると,「慶応四年以前の最終月日は必ずしも明らかでない」として,前記司法省法務局長回答のいう「歴史學者ノ意見區々ニ渉リ歸一ノ解釋ヲ定ムルコトハ至難」と同様の理解をしながら,結論としては,前記司法省法務局長回答と異なり,改元日説によるとした決議がある(昭和42年7月3・4日福岡連合戸籍住民登録事務協議会決議)。おそらく,前記司法省法務局長回答の際には,年始説が「従来の慣例」であったの対し,同決議の際には,大正改元,昭和改元を経て,改元日説が一般化していたという背景事情の違いがあるのであろう。

改元日説の曖昧さ

ところで,改元日説をとると,大正改元,昭和改元の場合と同様,改元の当日について,新元号を用いるのか,旧元号を用いるのかという問題が生じる。前記『類聚国史』は,この点の取り扱いが曖昧なままなのであるが*19改元日説の発想を徹底するのであれば,「改元がなされた瞬間」を基準とする詔書発布時説をとるのが自然である。これを支持するのが,芝葛盛「皇室制度」である*20。前述の羽黒敬尚も,「正確には」,午前と午後で区別すべきであるとしており,その趣旨は不明確ながら,詔書発布時説に近い発想と考えられる*21

しかし,『江家次第』には,京官は,天皇の最終的な決裁(覆奏)を経る前から新元号を用い,地方官は,改元詔書の施行を命じる行政文書(騰詔官符)を受けてから新元号を用いるという記述がある*22。すなわち,都では,詔書発布前から新元号が用いられ*23,地方では,詔書発布後であっても新元号を用いるべきではなかったようなのである。そうであるとすれば,詔書発布の時点をもって,「改元がなされた瞬間」ということはできず,詔書発布時説は,その根拠を失う。

そもそも,改元がなされた瞬間にしろ,改元詔書が発布された瞬間にしろ,その時点を特定することは困難であり,実際上の便宜を重視すれば,午前0時説(又は翌日説)が適当であることは明らかである。羽黒敬尚は,前述のとおり,正確には,午前と午後で区別すべきであるとしながら,実際には,午前0時説によっていたとも述べており,このような便宜を考慮した取り扱いとして理解することができる*24。ちなみに,前掲大正7年10月3日内閣書記官長回答昭和42年7月3・4日福岡連合戸籍住民登録事務協議会決議も,午前0時説を採用している*25

私見

前近代の改元においては,遅くとも平安時代から,年始説と改元日説の対立がありながら,実際上,何となく曖昧な取り扱いが続けられてしまい,権威と認めるべき見解を見いだすのは困難である。まして,改元日説によった場合に,午前0時説によるのか,詔書発布時説によるのか,それ以外の説によるのかになると,さらに判然としない。

しかし,ここで注目しておくべきは,詔書の文言は,必ずしも絶対の根拠となるものではないということである。最近になって,大正,昭和の改元詔書の文言と慶応以前の改元詔書の文言を引き比べ,年始説の根拠とする見解が現れたが,天平宝字改元詔書の文言という反例があるばかりか,起草者意思という観点からも,決定的な根拠とすることはできないであろう。

また,以上の議論のなかには,何が正しいかを決めるというより,事務処理の基準を決めたにすぎないものがあり得ることにも注意すべきであろう。例えば,前掲昭和42年7月3・4日福岡連合戸籍住民登録事務協議会決議は,改元日説のうち午前0時説を採用したが,慶応以前の改元において,この説をとるべき理論的な根拠を見いだすことは困難である。しかし,事務処理の基準という観点からは便宜である。
続く

*1:清水澄『国法学』〔改版増補第12版〕(憲法編)・360頁深谷博治「明治改元とその後の改元」(朝日新聞昭和43年10月1日夕刊9頁・研究ノート)。

*2:以上は,芝葛盛「皇室制度」(岩波講座日本歴史・第10)・16頁が,反対の立場から紹介する。

*3:なお,『続日本紀』においても,本文中では,「天平二十一年二月丁巳。陸奥國始貢黄金。」(巻十七・天平感宝元年)など,遡及させない場合がある。

*4:芝葛盛「皇室制度」(岩波講座日本歴史・第10)・16頁

*5:芝葛盛「皇室制度」(岩波講座日本歴史・第10)・16頁

*6:芝葛盛「皇室制度」(岩波講座日本歴史・第10)・16頁

*7:ちなみに,『扶桑略記』は,改元の年を旧元号で統一している。しかし,そうであるからといって,同書が,改元の年の翌年から新元号が適用されるという「翌年説」を採用しているなどと考えることができないことは明らかである。改元の年が,「元年」であることは動かしようがないからである。

*8:所功元号の歴史〔増補版〕』・78頁。

*9:中国の方式とは,魯の定公の故事のことである。なお,実際には,中国においても,新帝即位に伴う改元の場合,新帝即位時説が通常であり,他に,翌年説をとるもの(隋書),年始説をとるもの(資治通鑑)などが散見するということのようである(諸橋轍次「年号及び改元考」(諸橋轍次著作集・第3巻)・510頁参照)。

*10:増補史料大成・第23巻・124頁。なお,その後も,頼長が,年始説を維持していた例として,『台記』巻8・久安3年3月22日条「今日事,拠長徳元年六月廿三日,延久元年正月廿二日例行之」などがある(増補史料大成・第23巻・204頁)。

*11:『日本後紀』巻14・大同元年5月18日条/国史大系・第3巻・70頁

*12:例えば,『尊卑分脈』実季卿伝には,「延久元年三廿左中将 … 同六年十十四兼中宮権大夫 … 同年十二廿六任権中納言 承保二年正十九従二位」とあり,延久元年については改元日説によりながら,延久6年については翌年説によっている。他方,続く公実卿伝では,同じ延久6年について,「同年(延久六年)正月廿八正五下 同日兼備前介 承保元十一十八従四下」として,改元日説によっている(新訂増補国史大系尊卑分脈第一編・121頁)。

*13:下橋敬長述・羽黒敬尚注『幕末の宮廷』(東洋文庫)・140頁。

*14:国立公文書館・公文類聚・第42編・大正七年・第1巻・件名番号28(辻朔郎ほか編『司法省親族相續戸籍寄留先例大系』・543頁,2915頁参照)。

*15:大正6年5月8日民第464号司法次官照会国立公文書館・公文類聚・第42編・大正七年・第1巻・件名番号28)。

*16:大正7年9月23日内閣法制局長回答国立公文書館・公文類聚・第42編・大正七年・第1巻・件名番号28)。

*17:国立公文書館・公文類聚・第42編・大正七年・第1巻・件名番号28。

*18:辻朔郎ほか編『司法省親族相續戸籍寄留先例大系』・543頁,2915頁。

*19:所功元号の歴史〔増補版〕』・79頁。

*20:芝葛盛「皇室制度」(岩波講座日本歴史・第10)・16頁

*21:下橋敬長述・羽黒敬尚注『幕末の宮廷』(東洋文庫)・140頁。

*22:『江家次第』巻18・改元事(改訂増補故実叢書・2巻・468頁)。

*23:ちなみに,『都氏文集』,『本朝文粋』,『言成卿記』などによれば,慶応以前の改元詔書の日付は,新元号によって記載するのが例であったようである(古事類苑・歳事部四・改元詔書・315頁)。

*24:下橋敬長述・羽黒敬尚注『幕末の宮廷』(東洋文庫)・140頁。

*25:ただし,前者は,直接的には,改元日説によるか,年始説によるかという問題についての回答であるから,午前0時説をとるか否かという問題については,射程外であるということもできる。

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