「閼伽の水」という表現を巡る江戸時代の議論
古くから,仏に供える水を称して「閼伽の水」ということがあった*1。ところが,他方で,「閼伽」という言葉自体,「水」のことを意味するという理解もあった*2。後者の理解を前提とすると,「閼伽の水」という表現は,重複表現ということになる。
この点について,山崎美成(1796-1856)の『三養雑記』は,「閼伽」という言葉自体が「水」を意味することを前提に,「閼伽」という言葉には,全部で3種類の意味があるのであって,「閼伽の水」という表現は,他の意味の「閼伽」と区別するための工夫であると論じる。
仏家にて阿伽の水といふは,阿伽すなわち水の梵語なれば,重言なりといふ人あれど,さにあらず。阿伽に三義あり。倶舎論にも,阿伽謂積集色とも,又即空界色とも見えたり。かゝる詞の例いと多かり。これとは自らことなることなれど猩々の謡曲に,金山と径山とありて,いずれもきんざんといへば,金山をば,かね金山といひ,径山をばこみち径山とゝなへて,まぎれぬためにむかしより,しかよべるとかや。これは書肆にてのり法言,かた方言とて,署名をわかちとなふると同例にて,この類,世にはいと多し。
これに対し,同時代の天野政徳(1784‐1861)の『天野政徳随筆』は,「閼伽」とは,一般にいわれているように「水」のことではなく,「水を入れる器」のことであるから,「閼伽の水」といっても,重複表現には当らないと論じる。
又按に,世人閼迦とは,水の梵語なりと心得たり。閼迦とは,烏枢瑟摩明王経音義曰,閼迦上は安葛反。或作遏字。梵語也。即盛香水盃器之惣名也。と見ゆ。是によれば閼迦は,水をいるゝ器の名にて,水の梵語にはあらず。さればあかの水ともいへり。若閼迦を水の事とせば,水の水といはんが如し。此阿伽といふ梵語に三義有。一には盛香水盃器,二には空,三には色を阿伽といへり。倶舎論巻一にいふ。阿伽謂積集色,また阿伽即空界色也,と見えたり。されば,是等を分んがために,あかの水といへるなるべし。和訓栞にも,閼伽は梵語,巻言欝勃蒸煮雑香。以其汁供養仏也といひ,又盛香水盃盂之総名。ともいへりと見ゆ。
実際のところ,「閼伽」とは,「仏への供え物」のことであり,それを前提に,供え物としての「水」や「花」のこともが,「閼伽」と称されるようになったにすぎない*5。「閼伽の水」という表現が重複表現でない理由は,この観点から説明されるべきものである。
とはいえ,江戸時代になると,知的階層の幅が広がった上,現在まで残っている資料も豊富なためか,色々な人が,様々な事について,多様な議論を行っているのをみることができ,追いかけてみると興味深い。
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