少年法61条と法解釈学の正当性

少年犯罪の実名報道を禁じる少年法61条は,条文上,「家庭裁判所の審判に付された少年」,又は,「少年のとき犯した罪により公訴を提起された者」としか規定していない。そうすると,それ以前の段階,例えば,単に逮捕された段階であれば,同条の禁止は及ばないということになるのであろうか。

(記事等の掲載の禁止)

少年法第六十一条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。

しかし,通常は,「それでは本条が無意味となるので」,同条の禁止は,「捜査段階にも準用される」と解釈する*1。実際,平成10年の「新潮45」の実名報道は,起訴前の段階であったが,その損害賠償請求事件の判決文をみても,この点は問題となっていない*2

この問題について常に思い出すのは,大学1年生のころ,法学部の教授が担当する教養科目で,少年法61条が問題となったときのことである。そのときも,上記の解釈が当然の前提とされており,講義終了後,私が,「条文には,これこれとしか書いていないのですが。」と質問に行ったところ,教授に,「解釈です。」と素っ気なく返されたことが,非常に印象に残っているのである。

もちろん,今となっては,上記の「解釈」をすることにも特段の違和感はなく,法学教育の一側面は,その辺の「機微」を「体得」させることにあるのかもしれない。しかし,素朴に考えれば,書いていないことは書いていないのである。少し前に,「刑法には「人を殺してはいけない。」と書かれている。」という記事を書いたとき,「書かれていることそのままではなく,自分の好きなように解釈して自分の主張を正当化するメソッド」なんて言われてしまったこともあったのであるが,法解釈学というものに,そう思われてしまう要素があるのは確かなのであり,法解釈とは何であり,そこに何の正当性があるのかという疑問は,忘れないでおきたいと思う。

*1:田宮裕ら編『注釈少年法』〔第三版〕・488頁。

*2:大阪地裁平成11年6月9日判決・判例時報1688号51頁,大阪高裁平成12年2月29日・判例時報1710号121頁。

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