ドイツ連邦共和国基本法の改正経過🄑:第1次〜第14次 ('49-'65)

基本法が制定されると,コンラート・アデナウアーが率いるキリスト教民主・社会同盟を中心とする保守系政権が成立し,後継のルートヴィヒ・エアハルト政権まで,長期政権を確立する。基本法には急拵えの「暫定憲法」としての側面があったため,当初から積み残しの課題があり,このアデナウアー政権の下,早い段階から改正を重ねることになる(第1次第3次第5次第6次第8次改正参照)*1

しかし,当時の基本法の重要課題は主権回復であった。占領体制が続く限り,基本法は,占領当局の発布する「占領条例」の枠内でのみ効力を有し,その改正にも占領当局の承認を要するなど,国の最高法規でさえなかったからである*2。実際,占領諸国と協議の上,主権回復の前提として成立したはずの第4次改正再軍備)は,フランス国民議会の反対で条件付きの承認となってしまい*3,1955年の主権回復まで,紆余曲折を経ることになる*4

また,基本法改正史という観点からは,防衛法制を定めた第7次改正を重要なメルクマールとして指摘することができる。というのも,同改正を巡る議論において,国家の重要事項については,与党が法律で定めるのではなく,与野党の協働の下,基本法の改正によるべきであるという考え方が広まり*5,その後,与野党の政治的合意を基本法に明記するスタイルの改正が*6,ドイツの頻繁な基本法改正における一個の特色となるからである*7

1. 内乱罪に関する暫定規定の失効

第1次改正 1951.08.30

ドイツの敗戦によって,帝国刑法の内乱罪外患罪の規定は削除され,基本法143条*8に暫定規定として置かれるのみであった。しかし,東西対立の激化に伴い,主として共産主義勢力の伸長に対する対策として,これらの罰則規定を大幅に拡充する刑法の改正がなされることとなり,前記暫定規定は失効することとなった。

解説

ドイツ敗戦後の1946年,占領当局(連合国)は,帝国刑法の内乱罪外患罪等の規定の廃止を布令した*9。これらの規定が,ナチス政権下で国家社会主義的な色彩の強いものとなっていたためであるが*10,同時に,占領当局に協力したドイツ人が,いずれ再建されるドイツ政府に処罰された轍*11を踏まないようにするという目的もあった*12

内乱罪に関する罰則規定は,制定時の基本法143条に復活することになるが(同条1項から5項),同条6項は,「以上の規定は,連邦法によって別段の規律がなされるまで適用される」とし,それが暫定的な規定であることを明確にしていた*13。また,従前の外患罪に相当する行為は,当該規定においても規制されていなかった

西独の刑法に内乱罪外患罪に関する規定が復活するのは,1951年の刑法改正法においてである*14。この改正は,東西対立の激化を背景に,共産主義勢力の活動を抑えることを主目的とし,我が国の破防法とも対比される治安立法である*15。そのため,連邦議会においても,ドイツ共産党(KPD)の強い抵抗がみられた(BT-Prot. I/160, 6476C)。

本改正は,上記の刑法改正に伴うものであり,刑法改正法7条において,基本法143条の効力を停止する規定が置かれた。もっとも,刑法に内乱罪が復活すれば,基本法143条の規定は当然に失効するものとされていたこともあり,刑法改正を争うKPDも,それに伴い基本法が改正されること自体は,特に問題としなかったようである*16

なお,基本法自身が,基本法143条の当然失効を定めていたことを重視し,本改正は本来の意味での基本法改正に当たらないという見解がある*17。確かに,刑法改正法の文言や立法経緯などをみても,当時,これが基本法の改正であると意識されていたかは疑問がある*18。しかし,現在では,ドイツ国内においても,これをもって最初の基本法改正と理解するのが一般である*19

2. 負担調整に関する連邦の権限の補充*20

第2次改正 1952.08.14

ドイツ敗戦後,旧東部領土等から追放されたドイツ人が西独地域に流入し,支援を求めていた。そして,この問題に戦後の通貨改革に伴う負担の不公平の是正を求める議論が加わり,これらの者を含め,国民の戦争被害を補償する「負担調整」が実施することとなり,これを連邦で統一して実施するため,連邦の権限が補充追加された。

解説

我が国では馴染みが薄い用語であるが,「負担調整」(Lastenausgleich)とは,戦争や戦争の結果としての破壊や追放などによって被害を受けた一般国民の生活再建を支援するため,戦時利得者,富裕者,戦争の被害を受けなかった人々に対し課税するなどし,両者間の負担を調整する立法,行政措置を指す*21

負担調整の典型的なものは,ドイツの敗戦に伴い,オーデル・ナイセ線以東の東部喪失領や東欧諸国から追放され難民化したドイツ人の損害の補填である。これらドイツ人「故郷被追放者」の存在は大戦末期から問題となり,その一派は後に故郷被追放民・権利被剥奪同盟(BHE)を結成し,一定の政治勢力となる*22

しかし,負担調整に関する議論が本格的な政治課題になったのは,1948年の通貨改革によって預金保有者に多大な損害を生じた一方,現物を保有する生産者の損害が相対的に軽かったことを契機とする*23。通貨改革は,戦争の結果として生じたインフレーションを原因とすることから,戦争の帰結による負担の一種と理解されたのである。

本改正前も,連邦は,「戦争の結果たる内外の負担」に関し立法権限は有していた(120条)。しかし,その執行権限については,基本法に特段の規定がないため,原則どおり,州政府に属していた(83条)*24。そのため,連邦政府が負担調整について立法したとしても,連邦政府が,その運用の統一を図る手段は限られていた(84条)。

本改正は,負担調整の執行について,連邦による統一した運用管理が必要不可欠と考えられことから,これを連邦自身の「固有行政」(86条)又は連邦の指示権の残る「委託行政」(85条)として執行すべく,その根拠規定を追加したものである*25。また,併せて負担調整の対象となる「負担」の範囲も拡張された*26

負担調整を法律に具体化するに当たっては,これに社会政策的要素を入れるかで左右の対立あり,野党の社会民主党(SPD)は,負担調整法に反対票を投じた*27。しかし,負担調整を実施するという総論には争いがなかったことから,本改正は,連邦議会において,賛成303,反対18,棄権21の多数で可決された(BT-Prot. I/160, 9316C)。

3. 連邦と州の租税配分の決定の先送り

第3次改正 1953.04.20

基本法は,制定時の107条において,連邦と州との間の税収の配分割合を1952年末までに連邦法によって定めることとし,この問題を先送りしていた。しかし,連邦と各州の利害対立が顕著な問題であるため,期限までに調整が付かず,暫定的な妥協として,当該連邦法の制定期限を1954年末まで延長する旨の本改正がなされた。

解説

基本法106条1項,2項の原規定は,間接税の収入権限を連邦に,直接税の収入権限を州に配分していた*28。しかし,この配分方式は,連邦に薄く州に厚く,しかも,富裕な州と貧困な州との間で格差が生じるなどの問題があり*29,本改正前の基本法107条は,1952年末までに制定する連邦法によって,これを再調整すべきことを規定していた。

このように,基本法は租税配分の不備を残したまま,問題を先送りして制定されたものであったが*30,その背景には,そもそも,国家次元の財政需要に関する十分な資料もなく,連邦や各州の利害調整をするのは困難であった上*31,占領当局が,「弱い連邦」を志向する介入を行う一方*32基本法の早期の成立を急がせたことがあるとされる*33

連邦政府は,この先送りされた問題の解決に取り組んだが,もとより連邦と州の利害対立が激しい問題であった上,税制改革が予定されるなか税収も安定しない一方,欧州防衛体条約(第4次改正参照)の分担金の額も不明であり,1952年末までの妥結を諦め,その期限を「1955年末」までに延長する基本法改正案(BT-Drs. I/3769)を提出した。

ところが,現状に満足する一部の州は,そのための基本法改正にも反対を表明した。基本法106条の租税配分の改定は,基本法107条に基づく委任法律による場合は過半数の議決で足りたが,同条の期限を徒過させてしまえば,3分の2の特別多数による基本法改正の手続によらねばならず,現状維持が容易になるからである*34

これに対し,連邦政府は,基本法107条に基づく委任法律として,連邦の地位を極めて強化した法案を提出する強硬姿勢に転じた。しかし,これは基本法107条の期限を延長する基本法改正に反対する州の譲歩を引き出すためのブラフの側面があり,結局,両者の妥協として,1954年末まで期限を延長する本改正が実現した*35

4. 再軍備の合憲性の明確化

第4次改正 1954.03.26

朝鮮戦争の勃発は,欧州方面でも軍事緊張を高め,西独の主権回復と再軍備が課題となった。しかし,制定時の基本法には,連邦が防衛に関する権限(防衛高権)を有する旨の明文規定がなく,関係する条約について,左派の社会民主党(SPD)から違憲訴訟を提起されるなどもしたことから,その合憲性を明確にするための基本法改正が行われた。

解説

1950年の朝鮮戦争は,同じく分断下の西独を不安に陥れ,その主権を回復させ,西独自身の防衛力を整備させることが課題となった。しかし,ドイツ軍国主義の復活に対する恐れも強く存したことから,「欧州防衛共同体」(EDC)を設立し,これによって創設される「欧州軍」の指揮下に置くことを前提に,西独の軍隊の再建が進められることとなった*36

ところで,制定時の基本法には,戦力の保持に関する明確な規定はなかったが,我が国の憲法9条のように,これを明文で禁止する規定もなかった。連邦政府は,基本法に,兵役の存在を前提とするかのような規定(4条3項*37)があることなどに照らし*38基本法の改正をすることなく,再軍備は可能であるという立場をとった*39

しかし,野党SPDは,基本法の制定経緯に照らしても,基本法を改正することなく再軍備をすることは許されないという立場をとった*40。そして,前記EDCに関する条約を承認する法律は違憲であるなどとして,連邦憲法裁判所において一連の憲法訴訟を争った*41。我が国の警察予備隊違憲訴訟と相似する構造といえようか*42

連邦憲法裁判所は,その判断に躊躇していたようであるが*43,その間,政府与党は,1953年の連邦議会選挙で基本法改正に必要な3分の2を確保し,本改正によって,防衛に関する連邦の立法権限を確認する条項*44,関連する条約の合憲性を担保する条項*45基本法に追加する本改正を成立させ,事態を政治的に結着させてしまった*46

もっとも,当時の西独は占領下にあり,本改正が発効するには,占領条例5項に基づき,占領当局の承認を要した。ところが,既に西独再軍備の前提となるEDC構想が,フランス国内の反対で破綻することが見込まれていたため*47,本改正のうち,再軍備に関する部分は,EDC条約の発効等を条件とする条件付き承認となってしまう*48

そして,1954年8月,仏国民議会がEDC条約の批准を拒否した結果,本改正の再軍備に関する部分も効力を生じないこととなってしまった。とはいえ,西独を西側諸国として再軍備化する必要性は高く*49,同年10月のパリ協定で,ドイツの主権回復,NATO加盟を認められることとなると,本改正の再軍備に関する部分も,ようやく発効が承認された*50

5. 連邦と州の租税配分の決定の再度の先送り

第5次改正 1954.12.25

第3次改正は,連邦と州との暫定的な妥協として,連邦と州の税収の配分割合を定める連邦法の制定期限を1954年末までに延長したが,その後も,連邦と州,富裕州と貧困州との調整が付かなかった。とはいえ,現状を改革する必要性があることに異論はなかったため,その期限を1955年末まで再延長する改正がなされた。

解説

連邦と州との間で租税配分の調整が合意されるまで,連邦や貧困州の税源不足は,当時の基本法106条3項,4項に基づく応急的な単年度立法などによって,曲がりなりに解決されていた。しかし,連邦が,毎年,必要額を計算して州に税収の移転を要求し,そのたびに利害調整する負担は大きく,連邦は,早期に租税配分の確定を必要としていた*51
他方,各州は,上記の単年度立法における連邦の要求額が年を追って増加し,しかも,結果として,連邦に剰余金が生じていたことから,連邦政府に不信を感じており,特に富裕州は,基本法を改正して租税配分を確定させることで,時の連邦議会の多数派の立法によって,州の財政が圧迫されるのを避けたいと考えていた*52

そのため,連邦政府は,期限の迫る1954年3月,州政府の要望にも配慮した連邦政府案を閣議決定し,州政府と交渉を重ねるなどしたが,調整は困難であった*53。その結果,連邦議会は州との妥協を放棄し,同年11月19日,連邦政府案よりも連邦に有利な独自の法案を可決し*54連邦参議院は,同年12月3日,当然のことなら,この法案を否決した*55

とはいえ,前記のとおり,連邦と州との租税配分を現状のままとすることは,連邦にとっても州にとっても不都合があったこともあってか,基本法107条条所定の期限を1954年末から1955年末までに延長する本改正が*56連邦議会において1954年12月15日(BT-Prot. II/161, 3165D),連邦参議院において同月17日(BR-Prot. 54/453),それぞれ全会一致で成立した。

6. 連邦と州の租税配分に関する改革

第6次改正 1955.12.23

連邦と州との租税配分の最終決定は,連邦と州との利害対立のため,第3次改正第5次改正を経て先送りされていた。そのような中,連邦の与党CDUが,多くの州でも与党であったことから党内調整で妥協が成立し,所得税法人税をプールし,これを連邦と州とで分け合う「税源結合方式」を導入するなどの基本法改正が行われた。

解説

連邦と州との租税配分の改革は,第3次改正第5次改正の説明で述べたとおり,連邦と州,富裕州と貧困州の利害対立のなか延々と協議が続けられていたが*57,連邦及び州の多数で与党となっていたキリスト教民主同盟・社会同盟(CDU/CSU)の党内調整で一定の妥協が成立し,1955年末に至り,ようやく交渉妥結に至る*58

もともと,連邦と州との租税配分の改革は,基本法107条の原規定に基づき,過半数の賛成のみで足りる連邦法の制定によってなされることが予定されていた。しかし,CDU/CSUにおける上記の党内調整の結果,基本法の改正に要する3分の2の賛成が得られることになったことから,基本法106条,107条の改正によってなされることになった*59

そして,改正後の基本法106条は,連邦と州との租税配分(垂直的財政調整)につき,間接税を連邦に,直接税を州に配分し,必要に応じて連邦が州に税収移転を求める現行の「税源分離方式」を改め,所得税及び法人税を連邦と州との共通の税源とし,これを両者が対等の立場で分け合う「税源結合方式」を採用し,連邦の立場を強化した*60

また,本改正後の基本法107条は,改正前の106条4項に対応する内容を規定するものであり,富裕州と貧困州との間の税源の平準化(水平的財政調整)を規律した*61。そして,これを具体化するものとして併せて成立した「州間財政調整法」が,期限の定めのないものとされていたことから,州における予算計画の確実性も高まることなった*62

このように本改正は,制定時の基本法107条が先送りした連邦と州との租税配分の問題を解決した。しかし,この改革は,連邦と州との妥協の下,それまでも何とか成立していたプラクティスを追認して制度化したものにすぎないとも評価されるものであり,1969年の第21次改正によって,更に抜本的な改正をみることになる*63

7. 防衛法制の整備

第7次改正 1956.03.19

連邦政府は,第4次改正で準備した再軍備を具体化するため,基本法の更なる改正をすることなく関係法令の整備を進めようとした。しかし,与党内部から,そのような重要事項は,与野党の広い合意の下,基本法の改正も含めて行うべきだとする議論が生じ,関係規定を基本法に追加等する本改正が,野党議員の一部の賛成も得て実現した。

解説

1954年の第4次改正は,連邦に対し,防衛に関する立法権限を付与したが,具体化に再軍備を進めるには,当然ながら,関連する諸法令の整備が必要であった。そこで,連邦政府は,1955年,軍隊の設置のためには基本法の改正を要しないとの立場を前提に,所要の規定を連邦法で整備ですべく,連邦軍の基本構想を明らかにした*64

しかし,連邦議会では,与党議員の中からも,新たな軍隊の在り方は,与野党の協働の下,基本法改正手続を通じて慎重に行うべきだという機運が生じ,連邦政府の方針に対する広い反発が生じた*65。このような国家の生存に関わる重要事項は,「偉大なアングロ・サクソンの民主国家」のように,挙国一致で実現されるべきであるというのである*66

この動きに呼応し,社会民主党(SPD)の議員らの中からも,基本法において軍人の基本権保障とともに軍隊の統制を確保するため,積極的・建設的な提案がなされ*67連邦議会による統制としての「防衛委員会」(本改正後の基本法45a条),国民による統制としての「防衛受託者」(同45b条)の規定の追加などの成果を得た*68

ともあれ,本改正は,西独における基本法改正に対する考え方,すなわち,防衛問題に限らず,国家の重要な問題に関しては,多少の犠牲を払ってでも,与野党間のコンセンサスを得ることを重視し,それが厳密には憲法事項でなくても,その時々の政治的合意を基本法に明記していこうという政治スタイルを確立する走りにとなったといえよう*69

8. 市町村の固有財源の保障

第8次改正 1956.12.24

第6次改正は,連邦と州との間の財源の配分に一応の決着をつけたが,市町村には独自財源が与えられず,州から分与を受けるにすぎないものとされた。連邦の支持も得た市町村は,所得税の一部を独自財源とすることを要求したが,結局,対物税(土地税及び営業税)を市町村に移管することなどで妥協が成立し,本改正がなされた。

解説

ドイツの市町村(自治体)は,州の構成要素にすぎないが,基本法上,地方自治権が保障されている(第42次改正前の基本法28条2項*70)。両者の関係は,いわば州の連邦に対する関係の相似であるが,さらに,連邦は,市町村の自治権を州から守るべき立場にあることから(基本法28条3項),三者間の複雑な関係が生じる*71

第6次改正では,連邦と州との租税配分のみならず,市町村の自治権という観点から,州と市町村との租税配分の問題も話題になった。しかし,同改正では,利害調整を簡明にするため*72,とりあえず市町村の問題は棚上げにされ,市町村は,州法によって,州の財源から分与を受け得るとされるに留まった(同改正後の基本法106条6項後段*73)。

本改正は,この積み残しの課題を解決するものである。市町村の念願は,所得税(の一部)を固有財源とすることであったが,本改正は,これは否定し,州に対し,所得税及び法人税の一部を市町村に分与することを義務付けるに留めた*74。しかも,その分与割合は,州法が自由に決定することができた(本改正後の基本法106条6項3文*75)。

しかし,その代わりとして,市町村は,連邦の支持を得て土地税(不動産税,地租)及び営業税を固有財源とし,曲がりなりにも課税自主権を獲得した(本改正後の基本法106条6項1文)*76。土地税及び営業税は,応益負担(等価負担)に基づく対物税として分類される税目であり,伝統的な市町村税である*77

9. 戦前の公的債務の一部破棄

第9次改正 1957.10.22

西独は,戦後賠償問題を法的に棚上げにする一方,二国間条約や国内法に基づき事実上の補償をしていた。しかし,財政上の問題もあり,1957年の一般戦争帰結法においては,戦前・戦中の債務等の一部について,同法に定める限度でのみ履行することとしたことから,そのような立法の基本法上の疑義を解消するため,本改正がなされた。

解説

戦前・戦中の旧ドイツの債務は,ボン協定(1952年)及びパリ協定(1954年),ロンドン債務協定(1953年)によって,西独との関係では,その多くが,将来のドイツ統一まで棚上げにするものとされた。しかし,西独の復興に伴い,実際には,二国間条約や1953年の連邦補償法や1956年の連邦返還法などに基づき,事実上の戦後賠償が始まっていた*78

1957年の一般戦争終結法(AKG*79)も,この流れに沿うものであるが,西独の経済再建のため,その債務の一部について,同法に定める限度でのみ履行することを定めた(1条1項)*80。しかし,このような規定は,基本法の定める財産権の保障(14条)*81や平等原則(3条)*82などとの関係で問題が生じ得た。

実は,基本法134条4項,135条5項は,戦前のドイツの「財産」の帰属等について,その詳細を連邦法で定めることができるなどとしていた。したがって,解釈によっては,本改正によることなく,連邦法たる一般戦争終結法1条1項によって,「消極財産」である債務の消滅を定めたとしても,基本法に反することはないとする余地はあった*83

しかし,連邦政府は,一般戦争終結法の制定のためには,基本法の改正が必要であるとの立場をとり*84基本法に135a条(現行同条1項)を挿入する本改正がなされた。これによって,連邦が,一般戦争終結法1条1項のとおり,債務不履行規定を立法をすることができる権限を有することが明文で確認されることとなった。

10. 原子力に関する連邦の立法権限の追加

第10次改正 1959.12.23

1955年の主権回復によって,原子力開発に弾みが付くと,これを連邦が管理するため,原子力(核エネルギー)に対する連邦の権限を明記する必要が生じた。しかし,その軍事利用の可能性を残すべきかを巡って与野党の対立があり,差し当たって,平和利用という限定を付した上で,連邦の競合的立法権限を追加する妥協が成立した。

解説

ドイツの原子力研究は,敗戦後,占領当局の法令によって厳しい制限が課され*85基本法にも,原子力・核エネルギーに関する規定は何も置かれなかったが*86,1955年に西独が主権を回復すると,それまでタブー視されていた原子力に関する議論が活発化し,原子力政策を所管する大臣も任命されるようになる*87
しかし,主権回復時の協定において,占領時の法令は,廃止立法がされない限り,その効力を存続するものとされた*88。そのため,連邦が原子力政策を進めるのであれば,前記の占領規制を廃止し,所要の法令を整備する必要があったが,その前提として,基本法を改正し,連邦に対し,原子力に関する立法権限を付与する必要があった。

与党は,既に連邦議会基本法改正のための特別多数を失っていたが,連邦が原子力立法の権限を得ること自体は,野党にも特に異論はなかった。しかし,野党は,基本法改正を「人質」にすることで,具体化な原子力立法の内容に妥協を迫ることができた。1956年12月の基本法改正法案(BT-Drs. II/3026*89)は,このような理由から頓挫してしまう*90

翌1957年7月の基本法改正案(BT-Drs. II/3726)は,野党社会民主党とも事前の合意を経たものであり,問題なく成立するはずであった*91。しかし,アクシデントで採決が遅れるなか*92,今度は与党キリスト教民主・社会同盟の内部から,同改正案が,「平和的目的」への限定という妥協をしていることに異論が強まり,結局,この改正案も流れてしまう*93

本改正は,連邦議会の第3回総選挙を経て,結局,前記1957年7月の基本法改正案と同じ内容で成立したものである*94。これによって,核エネルギーに関し,連邦の競合的立法権限を追加され(本改正による基本法74条11a号)*95,同時に成立した原子力*96によって,原子力開発に関する占領下の前記規制法令が廃止された(同法55条)。

11. 航空交通に関する連邦の行政権限の追加

第11次改正 1961.02.06

制定時の基本法は,航空交通に関し,占領当局に関する規制権限を留保していたこともあり,連邦に立法権限を付与しながら,これを執行する権限を与えていなかった。そのため,連邦は,その主権回復後も,州との行政協定という形で航空行政を実施せざるを得ず,このような状況を解消するため,本改正がなされた。

解説

基本法は,連邦が立法権限を有する事項であっても,原則として,その執行権限は州に属するとする(基本法83条)。連邦は,これらの事項について,連邦レベルの上級行政官庁を組織することはできるが(同法87条3項1文*97),基本法上の特段の規定が無い限り,自ら下部行政機関を組織して法律を執行することはできない(同条1項)。

制定時の基本法は,航空交通に関する権限を連邦の専属的立法事項としたが(同法72条6号*98),この執行権限について,特段の規定を置かなかった。そもそも,当時は,占領当局が,民間航空に関する規制権限を留保していたため(占領条例2条a*99),実際上も,そのような規定を置く必要性はなかったものと思われる*100

とはいえ,占領当局は,徐々に航空管理事務をドイツ側に委譲し,1952年には航空安全連邦監督庁が,1953年には連邦航空庁が,それぞれ連邦レベルの行政上級官庁として設立された。もちろん,前記のとおり,これらの官庁は,現場での法律を執行する権限を有しないから,連邦と州との行政協定に基づき事務を実施していた*101

本改正は,その後,西独が主権を回復し,国際航空規制との関係も調整しなければならなくなる状況の中,連邦が,行政協定などという中途半端なもの用いることなく,統一的な航空行政を実施することができるようにするため,基本法に,航空交通行政を連邦の固有行政と規定する87d条*102を追加した*103

12. 連邦特許裁判所の創設

第12次改正 1961.03.06

ドイツでは,伝統的に,特許庁の抗告部の決定に対し,司法裁判所に出訴することができなかった。この伝統は,同部を裁判機関とみることで正当化されていたが,1959年の連邦行政裁判所の判決が,この考え方を否定したことから,専門性を確保しつつ,司法的な救済を付与する機関として連邦特許裁判所を創設することとなり,本改正がなされた。

解説

ドイツでは,19世紀以来,特許の付与等に関し,特許庁の審査課及び特許部の決定に対し,特許庁の内部組織である抗告部の再審理を受けることができるのみであり,裁判所に出訴することができなかった*104。1919年のワイマール憲法も,裁判機関による権利救済を保障しなかったので,それでも特段の問題はなかった*105

1949年の基本法は,19条4項で裁判を受ける権利(法的救済請求権)を保障し,特許付与に関する決定についても,裁判機関による救済が保障されるべきものとした。しかし,司法裁判所への出訴を許さない上記伝統は維持された。連邦特許庁の抗告部は,無効部とともに裁判機関であると整理されたからである*106

ところが,1959年6月13日の連邦行政裁判所の判決(BverwGE 8, 350*107)は,連邦特許庁の抗告部は裁判機関に当たらず,その決定に対し裁判所に出訴できるとした*108。そうすると,当時の裁判制度によれば,同部の決定に不服がある者は,通常の行政訴訟と同様,行政裁判所,高等行政裁判所,連邦行政裁判所の三審級で争う道が開かれることになる。

しかし,この帰結は,迅速な権利確定という経済界等の要請に反した*109。関係法令を改正すれば,審級省略による迅速化は図れたが,いずれにせよ一般の裁判所での審理となるので,専門性の点で懸念があった*110。そこで,特許事件のみを取り扱う専門の裁判所を創設することが議論の俎上に上がる*111

手続の迅速を重視すれば,連邦通常裁判所,連邦行政裁判所などと並ぶ連邦上級裁判所(第16次改正前の基本法96条1項*112)として,一審制の「連邦特許裁判所」を創設することが考えられた。しかし,この案は連邦政府の賛成を得られず,また,上告審レベルの裁判所でありながら,事実問題も扱わざるを得なくなるという問題があった*113

結局,この問題は,上告審たる連邦通常裁判所の下級裁判所として*114,事実問題をも取り扱う「連邦特許裁判所」を創設することで決着した(二審制)*115。そして,連邦の裁判所の構成は,憲法事項であるとされていたから*116,新たに連邦特許裁判所を創設し,その上級審を連邦通常裁判所とする本改正がなされた。

13. 連邦の立法権限の及ぶ戦争墓地の範囲の拡大

第13次改正 1965.06.16

基本法は,伝統的な国家の義務として,「戦没者の墓地のための配慮」に関する事項を連邦の立法権限としていた。しかし,追悼の対象が,古典的な「戦没者」(=戦没兵士)から,戦争で死亡した市民,ナチスの迫害を受けた犠牲者などに拡大されていく中,連邦の立法権限として不十分となったため,この点の権限拡大を図る本改正がなされた

解説

国家による戦没者の顕彰は古来より珍しくないが,欧州では,普仏戦争講和条約であるフランクフルト条約(1871年)を端緒として,戦没兵士の墓地を管理することを国家の国際条約上の義務とする伝統が生じた*117。そのため,基本法も,その制定当初から,「戦没者の墓地のための配慮」(74条10号)を連邦の立法権限として列挙した。

しかし,ドイツは敗戦国ということもあり,戦没兵士を対象とする国立の追悼施設は長らく設置されなかった*118。1960年代までには,大戦の反省を踏まえ,戦没兵士の顕彰ではなく,戦争で死亡した市民,ナチスの迫害の犠牲者など,戦争にかかわる幅広い死者を含めて追悼すべきであるという考え方が,国家的な合意となる*119

また,東西統一の実現まで,全ドイツを対象とする追悼施設は建設し得ないという建前もあった*120。しかし,1961年のベルリンの壁建設で統一が遠のくと,国立追悼施設の設置を求める動きが昂揚し*121,1964年には,その代用として,ボン市内のホーフ・ガルテンに「戦争と暴力支配の犠牲者のために」という銘板が掲げられるに至る*122

このような経緯を受け,制定時の基本法74条10号が,連邦の立法権限を「戦没兵士の墓地」を念頭に置く「戦没者の墓地」に限っていることが不都合であると意識されるようになる。本格的な国立追悼施設を作らないまでも,「戦争と暴力支配の犠牲者」の個々の墓地の整備について,連邦で統一した規律を及ぼすこともできないからである*123

本改正は,この問題を解消するため,「戦争のその他の犠牲者」,「戦争と暴力支配の犠牲者」の墓苑に関する事項をも連邦の立法事項としたものである*124。また,本改正は,連邦が,ドイツ国内の連合軍兵士の墓地や外国人犠牲者の遺体等に関する国際協定上の義務を履行する上でもメリットがあったようである*125

14. 負担調整に関する州の負担の追認

第14次改正 1965.07.30

連邦は,1948年の通貨改革の際に交付した平衡請求権(特殊な公債)の利息の一部を州に分担させていた。しかし,1959年,連邦憲法裁判所が,この取り扱いを,連邦が「戦争の結果たる内外の負担」を負うとした基本法120条に反するとしたことから,混乱を避けるため,法改正まで,州の分担を遡及的に合憲とする本改正がなされた。

解説

西独地域では,1948年に通貨改革が実施され,通貨の切下げとともに,公債が破棄された。その結果,銀行等の金融機関は,その資産の大部分を占める国債を失い,減価されたとはいえ残存する預金債務との関係で準備高不足に陥るものが生じた。その見合いとして交付されたのが,「平衡請求権」*126と称する特殊な公債である*127

連邦政府は,この平衡請求権の利息を州政府にも分担させていたが*128,連邦憲法裁判所は,1959年の決定において,この取扱いを定める連邦法の規定を基本法120条1項に違反するとした(BverfGE 9, 305)。平衡請求権に関する負担は,同条項の「戦争の結果たる内外の負担」に該当するから,連邦政府に帰属するというのである。

連邦憲法裁判所の法令違憲の裁判は,遡及的一般的に法令を当然無効とするから,この決定によって,連邦政府は,これまで州政府に割り当てられてきた莫大な負担を返還する義務を負った。それ自体は,州政府にとって歓迎すべきもののようであるが,その実施に伴い,連邦と州の財政調整制度に大混乱が生じることが予想された*129

すなわち,これまで連邦と州は,それぞれの財政上の必要性を示し,全租税収入に対する自己の取り分を主張し,種々の駆け引きを経て,財政調整制度を設計してきたのであるが*130,前記決定によれば,平衡請求権に関する負担の分だけ,連邦の財政要求は実際よりも少なく見積もられ,州の財政要求が実際よりも多く見積もられていたことになる。

そうすると,平衡請求権に関する負担を連邦に負担し直させた上し,改めて租税配分を調整し直さねばならないことになるが,その手間が膨大である割には,最終的な配分は回り回って大差ないということになりかねなかったであろう。結局,連邦と州とは,既往の負担に関しては,従前の取扱いの結果に手を付けず,現状を維持することで合意した*131

この合意を受け,本改正は,「戦争の結果たる内外の負担」の調整を連邦の負担においてすることを定める基本法120条1項を改め,1965年10月1日までに連邦法が規律していた限度で*132,これを州にも負担させることができるとした。技術的な改正にすぎないが,裁判所の違憲判断を実質的に覆すためになされた憲法改正としても注目に値しよう*133
続く

*1:例えば,制定時の基本法107条について,「建国を急ぐ連合国の圧力によって財政調整に関する合意を待たずに基本法が制定された結果」という(半谷俊彦「ドイツの地方財政調整」(地方財政46巻2号155頁),2007年2月,160頁,161頁)。ただし,「暫定憲法」という表現は,「統一までの暫定憲法」(塩津徹『現代ドイツ憲法史』,2003年3月28日,239頁)という意味で用いられる場合が多い。

*2:憲法調査会事務局『ドイツ連邦共和国基本法の制定の経過』,国立公文書館・本館−2A−038−08・憲00115101,153頁〜154頁。

*3:Entscheidung Nr. 29 der Alliierten Hohen Kommission vom 25. März 1954, ABl. AHK S. 2864,邦訳:前掲『ドイツ連邦共和国基本法の制定の経過』,資料の部・240頁〜242頁。

*4:その後,フランスがドイツの主権回復を認めるに至る経緯は,例えば,岩間陽子『ドイツ再軍備』(1993年6月)・229頁以下に詳述される。

*5:山中倫太郎「ドイツ防衛憲法改革の概念と論理」(憲法改革の理念と展開(上)・192頁),2012年3月,199頁。

*6:前掲岩間・279頁は,第7次改正について,「西ドイツの議会は、その時々の政治的合意を、基本法にはっきり記していくという政治的選択をした。これは何も防衛問題に限らず、あらゆる憲法問題を扱うときの、連邦共和国のスタイルとして確立された。一九九○年の東西ドイツ統一までに、基本法の変更は実に三十六回を数えている。多少の犠牲を払ってでも、国家の重要な問題に関しては与野党間のコンセンサスを得ることの方が重要であるという認識が一貫して持たれてきたためであろう。」と総括する。

*7:例えば,第30次改正の解説などをみても,「西ドイツの議会が,与野党議席数の差が極めて僅少であるにも拘わらず,国として必要なことであれば,両党ともに,いわゆる小異を残して大同につき,両院の各3分の2の多数で基本法を次々と改正してゆく姿は,他の諸外国の参考とはなろう。既にこれで西ドイツは,1949年基本法制定以来,実に30回目の憲法の一部改正を行なったこととなった。」と評するものがある(長野実「西ドイツ第30次基本法改正法」,外国の立法11巻6号318頁,1972年11月,320頁)。

*8:なお,「143条」という条番号は,第7次改正で国内的緊急事態に関する規定として復活するが,これも第17次改正で削除される。現在の基本法143条は,東西ドイツの統一に伴う第36次改正で新たに規定されたものである。

*9:Control Council Law No. 11 (‘Repealing of Certain Provision of the German Criminal Law’), 30 January 1946. Allied Control Authority Germany, Enactment and Approved Papers, Vol. 2, The Army Lib., p.71 and seq.

*10:吉川経夫「西ドイツの治安立法」(法学志林51巻1号89頁,1953年9月)・91頁・注3の指摘による。なお,ナチス政権による改正は,南利明「民族共同体と法(5)」(静岡大学法経研究39巻2号63頁,1990年7月)・105頁・注16に列挙される。

*11:実際,第一次大戦後に占領諸国に協力したドイツ人が,ナチス・ドイツのラインラント進駐後,外患罪に問われたようなこともあったようである(Matthias Etzel, Die Aufhebung von nationalsozialistischen Gesetzen durch den Alliierten Kontrollrat 1945-1948., Dezember 1992, S. 84)。

*12:Thomas Vormbaum / Jürgen Welp , Das Strafgesetzbuch. Supplementband 3, Juli 2006, S. 139. Szanajda, Andrew, The Restoration of Justice in Postwar Hesse, 1945-1949. March 2007, p. 81.

*13:ただし,基本法の制定当時は,その暫定規定を失効させるための刑法改正が急務であるとは考えられていなかったようである(アーベントロート[著],村上淳一[訳]『西ドイツの憲法と政治』,1971年3月5日,54頁)。むしろ,本改正が,基本法の暫定性を失わせるものであったとも評価されている(同書・62頁)。

*14:Vorbaum, op. cit.(改正の具体的内容は,後掲吉川が批判的に詳述する外,平野龍一「西ドイツの破防法」(ジュリスト28号20頁,1953年2月)が紹介する。).

*15:法務省の資料では「民主主義的憲法秩序を擁護するため」とあるが(法務大臣官房司法法制調査部『ドイツ刑法典』,1982年3月・12頁),当時の西独は西側連合国の占領下にあったことに注意が必要であり,「恐らくは占領軍の強力な影響のもとに制定されたものであろう」とも指摘される(吉川経夫「西ドイツの治安立法」(法学志林51巻1号89頁),1953年9月,89頁〜91頁)。

*16:BT-Prot. I/160, 6485C(なお,仮に当然失効でないとすると,3分の2の特別多数を要する基本法の改正さえ阻止すれば,基本法の規定を加重する刑法は違憲無効であるとする余地があるから,少数派のKPDも少し戦いやすかったはずである。).

*17:Hasso Hofmann, Verfassungsrechtliche Perspektiven, 1995, S.212(刑法改正法7条が基本法143条の効力を停止したからではなく,刑法改正法1条が,内乱罪を復活させたことにより,基本法143条が失効したと理解することになる。).

*18:基本法79条1項は,基本法改正には明文の法律が必要であるとするのに,刑法改正法7条は,基本法143条の「効力の停止」(tritt außer Kraft)をいうのみで,一般的に用いられる「削除」(aufgehoben)を明言していないこと,②刑法改正法7条につき,基本法改正に必要な3分の2の多数による議決が明示的にはなされていないとみられること,③占領条例5項に基づく占領当局による基本法改正の承認もなされていなとみられることなどからすれば,刑法改正法7条の当該規定は確認規定にすぎないとみる余地もあろう。

*19:例えば,「第何次基本法改正法案」と題するタイプの法案は,本改正を第1次改正として数えており,また,一般的なコメンタール(e.g. Michael Sachs , in Sachs, GG, 5. Aufl., 2009, S.1)をみても,本改正は第1次改正として扱われている。

*20:山岡規雄・元尾竜一「諸外国における戦後の憲法改正【第4版】」(調査と情報824号,2014年4月24日)・7頁は,本改正の内容を「占領費等支出の連邦及び州の負担調整」とするが,その理解には疑問がある。

*21:安野正明「1950年代前半のドイツ社会民主党の危機」(広島大学総合科学部・社会文化研究21巻105頁),1995年,116頁,ドイツ連邦労働社会省編『ドイツ社会保障総覧』,1993年1月,533頁。

*22:例えば,連邦政府の与党であったCDUに属する故郷被追放民出身議員は,BHEへの移籍をちらつかせ,これとSPDとが連携することを懸念したCDU執行部から譲歩を引き出した。その過程は,前掲安野・114頁〜123頁に詳しい。

*23:故郷被追放民は,敗戦前から西独地域に居住していた者と利害を異にする上,その被害額の計算も困難であることから,負担調整の問題を複雑化するものとして,敬遠される面があったとされる(前掲安野・116頁)。

*24:基本法120条は,連邦に財政負担を課しただけであり,その執行は,基本法に特段の手当がなされない限り,州の権限に属することになる(Helmut Siekmann in Sachs, GG, 5. Aufl., 2009, Art. 120 Rn. 5)。

*25:全てを連邦の固有行政とすることも考えられるが,連邦の行政部門には,住宅建設や老齢年金の給付といった具体的な施策を実施するに適した人的資源がなかった(臨時在外財産問題調査室調査資料「負担調整の十年」,国立公文書館・分館−05−053−00・平12大蔵0293100所収,39頁,226頁〜227頁)。

*26:基本法120a条にいう「負担調整」の対象は,同法120条の「戦争の結果たる内外の負担」と異なり,戦争との間に直接的な関係は不要であり,具体的には,同時に成立した負担調整法(Lastenausgleichsgesetz vom 14.8.1952, BGBl. I S. 446)の1条に示される範囲と同じものになると理解されている(Siekmann, op. cit., Art. 120a Rn. 5)。

*27:故郷被追放民という「貧者」は,本来,SPDの支持母体となり得るものであったのに,このような評決行動の結果,負担調整法の成立の功績は政府(CDU)に帰することとなってしまったといわれる(前掲安野・114頁〜123頁)。

*28:この分割方式は,ビスマルク憲法(1871年)に倣ったもので,当時も「時代遅れ」のものであると理解されており,同条3項,4項による調整の余地が残された(伊藤弘文「ドイツ共同税の成立の一こま」,地方財政43巻4号4頁,2004年4月,4頁〜5頁)。

*29:基本法の原規定によれば,連邦の財源は,その立法権限を行使するのにも不十分であり(財務省財務総合政策研究所「主要国の地方税財政制度」,2001年6月,173頁),また,州によって,税源と経費負担に不均衡があったとされる(前掲伊藤・5頁)。ただし,国立国会図書館調査及び立法考査局財政金融課「西独における戦後復興と地方自治地方財政調整制度」(レファレンス102号42頁,1959年)・57頁は,連邦の財政が州に比して余裕があったことを指摘する。

*30:基本法改正案の可決には3分の2の特別多数が必要であるのに,法律で基本法の規定を改定できるとするのは「倒錯」であるともされる(中井英雄ら「ドイツ連邦・州間財政調整の財政責任史〔I〕」,生駒経済論叢5巻2号57頁,2007年10月,66頁)。

*31:ヴォルフガング・レンチュ,伊東弘文(訳)「ドイツ連邦共和国における財政基本規範と財政調整」(地方財政36巻5号176頁),1997年5月,180頁,半谷俊彦「ドイツの地方財政調整」(同46巻2号155頁),2007年2月,160頁。

*32:ドイツ側は,当初,主要な税目を連邦と州に共同で帰属させ,連邦法によって,これを連邦と州とで分割する方式を検討したが,占領当局は,1948年11月22日付け覚書で,これを拒否した(前掲伊藤・4頁〜5頁,ヴォルフガング・レンチュ,伊東弘文(訳)『財政基本規範と財政調整』,1995年3月,75頁〜83頁,88頁〜91頁)。なお,上記覚書は,憲法調査会事務局『ドイツ連邦共和国基本法の制定の経過』(国立公文書館・本館−2A−038−08・憲00115101)・資料の部149頁に収められている。

*33:前掲半谷・161頁の指摘によるが,具体的な事実関係は不明である。前掲レンチュ[2005年]・78頁は,アデナウアーが,ともかくも基本法を早期に成立させることが,ドイツ側の利益になると強く主張していたことを指摘する。

*34:前掲伊藤・6頁〜7頁は,期限延長に反対した州は,当時の基本法106条に基づく租税配分の「永久」化を志向したかのようにいうが,前掲レンチュ[2005年]・178頁〜179頁は,反対した州も,財政改革それ自体を阻止するつもりはなかったとする。

*35:これら一連の経緯は,前掲レンチュ[2005年]・179頁〜182頁,前掲伊藤・6頁〜7頁に詳しいが,前者は,連邦政府の強硬案が「最終案ではないことも関係者全員にわかっていた」とするが,後者は,連邦参議院は,「たじろぎ,譲歩した。」と表現する。

*36:ドイツ再軍備の経緯については多数の邦語文献があるが,差し当たって,中村登志哉『ドイツの安全保障政策』(2006年7月,13頁〜15頁)を挙げる。

*37:基本法4条3項は,武器を持ってする軍務の強制を禁じており,少なくとも募兵制は想定されていると解し得る。また,同条項を良心的兵役拒否の権利を保障した規定にすぎないと解すれば,徴兵制さえも許されることになろう(憲法調査会事務局『ドイツの再軍備』,国立公文書館・本館−2A−038−08・憲00121121,40頁〜41頁)。

*38:基本法4条3項の外,26条1項が,侵略戦争を禁じていこと,24条2項が,連邦が相互的集団安全保障機構に加盟することを許していることからすれば,基本法は,ドイツが,自営のための軍隊を保持することを禁じているとはいえないという結論は十分に成り立ち得た(岩間陽子『ドイツ再軍備』,中公叢書,1993年6月,198頁)。

*39:なお,再軍備が可能であるとしても,明文の規定がない以上,基本法70条,83条の原則に基づき,それは州の権限に留保されるということにならないのかという問題は考えられる。しかし,通常は,事柄の性質上,連邦の「暗黙の権限」に属するなどと理解されたようである(藤田嗣雄「ボン憲法再軍備問題」,ジュリスト8号32頁,1952年4月,33頁〜34頁)。

*40:要するに,基本法の制定の際,ドイツの再軍備は全く想定していなかったから,再軍備をするには,基本法の改正が必要であるという立場である(前記岩間・198頁)。もっとも,SPDにしても,再軍備をすること自体に反対していたわけではなく,当時のSPDは,基本法の改正を阻止し得る議席を有していたため,再軍備のために基本法の改正が必要であるとすれば,SPDが,具体的な再軍備の在り方について,実質的に関与することが可能になるという点が重要であった(同・199頁)

*41:SPDは,当初,再軍備に関する法律の制定等を違憲とする予防的違憲確認訴訟を提起したが,その後,連邦政府がEDC条約を締結すると,その承認法律の違憲確認訴訟に変更した(千葉勝美ら『欧米諸国の憲法裁判制度について』(司法研究報告書43輯1号,1989年12月)・182頁)。連邦が防衛に関する権限を有しないのであれば,これをEDCに委譲する条約も違憲ということになろう(山中倫太郎「ドイツ防衛憲法改革の概念と論理」,憲法改革の理念と展開(上)・192頁,2012年3月,196頁)。

*42:日独双方とも,結局,本案判断は示されなかったという点で共通するが,そこに至る経緯は相違する。ドイツにおいては,連邦政府が対抗的な訴訟を提起したり,連邦憲法裁判所法の改正を示唆したり,その駆け引きが面白いのであるが,詳しくは,前掲岩間・207頁以下,前掲千葉ら・181頁以下などを参照されたい。

*43:連邦憲法裁判所は,訴訟の重大性にかんがみ,手続の進行を事実上停止させ,1953年の連邦議会選挙の結果を待ったとされる(前掲千葉ら・183頁〜184頁)。

*44:前記のとおり,連邦政府は,再軍備のために基本法を改正する必要はないとの態度をとっており,本改正は,選挙で示された国民の合意を正式に基本法に明文化するためにするものと説明された(BT-Drs. II/9, S. 244A)。なお,これが確認的な改正であることは,早くから我が国においても,例えば,藤田嗣雄「西独の再軍備憲法改正」(ジュリスト57号2頁,1954年5月)・4頁が,「疑点を明らかに」する改正であったと指摘しており,前掲岩間・223頁も,「疑念を消滅させるため」という連邦政府の主張を紹介する。

*45:基本法79条1項に第2文を挿入し,また,142a条(当時)を追加する改正であるが,ドイツの学界においては,この改正自体が違憲であるとする見解が多数となるなど,問題の多い改正であるとされる(ラインハルト・ノイマンドイツ連邦共和国における憲法改正の諸問題」,阪大法学110巻105頁,1979年3月,110頁以下)。

*46:ただし,SPDは,本改正自体が違憲であると主張して違憲訴訟を続行したから,本改正によって問題が完全に決着したわけではない。しかし,その後,フランスがEDC条約を批准せず,同条約が発効する見込みがなくなったことから,訴訟の対象が消滅したことによって,同訴訟は当然に終了したものとみなされている(前掲千葉ら・184頁)。

*47:前掲藤田[1954年]は,同決定前に公表された解説であるが,同決定が正式になされる前におけるフランスや占領当局の意向に触れてる(5頁)。

*48:さらには,EDC条約の発効まで,防衛の分野において,立法・行政上の措置を執ることが禁じられた(Entscheidung Nr. 29 der Alliierten Hohen Kommission vom 25. März 1954, ABl. AHK S. 2864,邦訳:憲法調査会事務局『ドイツ連邦共和国基本法の制定の経過』,国立公文書館・本館−2A−038−08・憲00115101,資料の部240頁〜242頁)。

*49:フランスは,EDC条約について,ドイツのみならず,自己の主権をも手放すことになってしまうことから反対したが,ドイツのNATO加盟による再軍備についても,ドイツが独自の指揮権を有する軍隊を保持することになることから難色を示した。フランスが,前者を破綻させた後,後者に同意した経緯については,前掲岩間・229頁以下に説明される。

*50:従前の条件付承認決定のうち,発効条件の部分について,1954年10月23日に調印されることとなるパリ協定の発効を条件とする修正決定がなされた(Entscheidung Nr. 32 der Alliierten Hohen Kommission vom 22. Oktober 1954, ABl. AHK S. 3112, 邦訳:前掲ドイツ連邦共和国基本法の制定の経過・資料の部・242頁〜243頁)。

*51:伊藤弘文「ドイツ共同税の成立の一こま」(地方財政43巻4号4頁)2004年4月,4頁〜5頁,ヴォルフガング・レンチュ,伊東弘文(訳)「ドイツ連邦共和国における財政基本規範と財政調整」(地方財政36巻5号176頁),1997年5月,180頁〜181頁。

*52:他方,貧困州は,連邦と利害を共通にする面が大きいが,連邦参議院では,富裕州が主導権を握っていた(ヴォルフガング・レンチュ,伊東弘文(訳)『財政基本規範と財政調整』,1995年3月,198頁〜199頁,207頁,208頁,209頁)。

*53:前掲レンチュ[1995年]・185頁以下。連邦政府案は,3月12日に閣議決定され,各州の要望を取り入れたものであったが(186頁),連邦議会の財政委員会の討議までに「どうにもならないことが明らかとなった。」(201頁)とされる。

*54:連邦議会は,財政委員会での討議にで州政府との妥協が「どうにもならないことが明らかとなった」(前掲レンチュ[1995年]・201頁)ことから,「妥協以前の財政調整構想に立ち帰ってこれに固執し,包括的妥協案の提案を放棄した」(206頁)とされる。

*55:前掲レンチュ[1995年]・206頁。ただし,連邦参議院数では,表決権が州の人口数に応じて割り振られるため,富裕州の意見が通りやすくなっており,連邦参議院で実際に法案に反対したのは,州の半数にすぎなかった(208頁)。

*56:なお,連邦政府は,単に基本法107条に基づく連邦法を制定するのみならず,基本法106条を始めとする基本法の改正を併せてする予定であったから(vgl. BT-Drs. II.480),この時点の連邦政府の意向を通すには,基本法107条の期限の到来の有無に関わらず,いずれにせよ3分の2の賛成が必要であった。もちろん,最後の切り札として,単純多数で決定できる授権を得ていることは連邦政府にとって有利であろうが,この改正自体の意味は実は大きくないのかもしれない。前掲レンチュ[1995年]・209頁は,この改正の理由を「基本法に基づく税収配分を簡素化して条文を新たに定めるべく」としており,基本法107条の期限は,同条に基づく連邦法制定の期限ではなく,あたかも基本法の改正を含めた租税配分について,連邦と州が合意する期限であるかのように理解されていたのかもしれない。

*57:連邦と各州のいずれも,この改革を何らかの形で終結させる必要性を感じていた上,また,長期に及ぶ対立に倦んできてもいたとされる(ヴォルフガング・レンチュ,伊東弘文(訳)『財政基本規範と財政調整』,1995年3月,198頁〜214頁)。

*58:他方,連邦の野党である社会民主党(SPD)は,主たる関心が,社会政策,経済政策,外交政策などにあり,また,州レベルにおける他党との関係もあったため,政党として一貫した対立軸を示さなかった(前掲レンチュ[1995年]・216頁〜222頁)。

*59:ただし,この党内調整が成立する以前から,単に基本法107条に基づく連邦法を制定するのみならず,連邦参議院でも3分の2の賛成を得た上,基本法106条を始めとする基本法の改正を併せてすることは予定されていた(vgl. BT-Drs. II.480)

*60:いわゆる「共同税」(Geinschaftsteuern)であるが,州側の反対があり,この時点では「共同税」という言葉は用いられず,また,その具体的な配分割合については,改正前の基本法106条3項の下で,単年度立法による応急的な手当が繰り返された煩を避けるため,事前に翌2年間の配分割合を固定する法律を定めるべきものとされた(ヴォルフガング・レンチュ,伊東弘文(訳)「ドイツ連邦共和国における財政基本規範と財政調整」(地方財政36巻5号176頁),1997年5月,182頁〜183頁)。

*61:これに加え,本改正後の基本法107条2項4文は,連邦の州に対する補助金(連邦補助交付金)による調整の方法も定めたが,1967年まで用いられなかった(自治体国際化協会『ドイツの地方自治』,平成15年8月,242頁〜243頁)。

*62:ただし,期限の定めがないことは,基本法の改正自体の効果ではなく,そのことについて連邦と各州が合意したからである(前掲レンチュ[1997年]・183頁)。

*63:本改正も,連邦と州との葛藤と相互不信を解消しなかったという(伊藤弘文「ドイツ共同税の成立の一こま」(地方財政43巻4号4頁),2004年4月,8頁〜9頁)。

*64:山中倫太郎「ドイツ防衛憲法改革の概念と論理」(憲法改革の理念と展開(上)・192頁),2012年3月,199頁。

*65:連邦議会防衛委員会の委員長であったリヒャルト・イェーガーを始めとする超党派の連合勢力が形成され,基本法の改正のみならず,関連する防衛立法の制定において役割を果たした(前掲山中・199頁,岩間陽子『ドイツ再軍備』,中公叢書,1993年6月,276〜277頁)。

*66:連邦議会の防衛委員会委員長リヒャルト・イェーガーの連邦議会における演説の一節であり(BT-Prot. II/132, 6846A),その邦訳は,前掲山中・200頁,前掲岩間・279頁が引用する。

*67:これは「与野党の協働」として積極に評価されるが,これを「必要悪」と称するSPD議員もあったことは注意を要しよう(前掲山中・200頁,同書202頁・注10)。また,本改正に賛成票を投じたSPD議員は多くなかったとのではないかと思われる。というのも,当時の与党の議席数は333,SPDの議席数は169であったのに対し(vgl. Informationen des Bundeswahlleiters, “Ergebnisse früherer Bundestagswahlen”, Stand: 5: Juni 2014, S.20),本改正法案の賛成票は390しかないからである(BT-Prot. II/132, 6848D)。

*68:改正の具体的内容の詳細は割愛するが,我が国でも注目の高い改正であったため,藤田嗣雄「西ドイツの再軍備憲法改正」(ジュリスト112号52頁,1956年8月),同「ドイツの再軍備」(憲法調査会事務局,憲資・戦5号,1961年7月)・46頁〜60頁,成田頼明「西ドイツの再軍備に伴うボン基本法の改正 -上-」(時の法令244号40頁,1957年5月23日),同「-下-」(同245号19頁,同年6月3日)など,邦文でも多数の解説がある。

*69:このような政治文化が,近くは,左右の二大政党による大連立政権の下,緊急事態条項に関する第17次改正を成立させ(前掲山中・200頁),ひいては,基本法の改正回数が多数に及ぶ一因となっているといえよう(前掲岩間・279頁)。

*70:現行28条2項3文には,市町村の財政上の自己責任及び税率決定権が規定されているが,これは第42次改正第44次改正を経て追加されたものであり,本改正時には,同項3文自体が存在しなかった。

*71:もちろん,連邦が,市町村のために州に介入する場合でも,州の自治権を害することはできない(BT-Drs. II/480, S. 37. ヴォルフガング・レンチュ,伊東弘文(訳)『財政基本規範と財政調整』,1995年3月,185頁〜186頁)。

*72:市町村の問題を組み込んで統一的解決を図ろうとして,ただでさえ難しい連邦と州との間の調整が決裂しては,元も子もないからである(BT-Drs. II/480, S.40.)。連邦政府も,同改正によっても,この点の問題が残ってしまうことは意識していた。

*73:同改正後の基本法106条6項後段は,「ラントの立法は,ラントの租税収入が市町村(市町村組合)の収入となるかどうか,またどの程度その収入になるか定める。」(高田敏ら(編訳)『ドイツ憲法集』〔第6版〕,2010年3月,277頁・注123,279頁)とする。

*74:本改正後の基本法106条6項3文と4文を比較されたい(自治体国際化協会『ドイツの地方自治』,平成15年8月,199頁,財務省財務総合政策研究所『主要国の地方財政制度』,平成13年6月,173頁〜174頁[大和田雅英])。

*75:本改正後の同項3文は,「所得税及び法人税に対するラントの取得分のうち,市町村及び市町村組合に対し,全体でラントの立法によって定められる百分率が,収入として,与えられる。」(前掲『ドイツ憲法集』,277頁・注123,279頁)とする。

*76:なお,当時,市町村財政は実際にも窮乏しており,この財源移管は,社会政策的措置としての意味を持ったとの評価もされている(国立国会図書館調査及び立法考査局財政金融課「西独における戦後復興と地方自治地方財政調整制度」,レファレンス102号42頁,1959年,53頁,57頁,60頁)。

*77:神奈川県地方税制等研究会ワーキンググループ報告書『地方税源の充実と地方法人課税』,平成19年6月,68〜69頁(半谷俊彦)。

*78:ライナー・ホフマン,山手治之(訳)「戦争被害者に対する補償」(立命館法學2006年2号・552頁),2006年,301〜303頁。

*79:Gesetz zur allgemeinen Regelung durch den Krieg und den Zusammenbruch des Deutschen Reiches entstandener Schäden, vom 5. November 1957, BGBl. I S. 1747(Allgemeines Kriegsfolgengesetz).

*80:広渡清吾「近代主義・戦後補償・法化論」(法律時報68巻11号2頁),1996年10月,4頁(cf. BVerfGE 94, 315)。

*81:vgl. Thorsten Koch in Sachs, GG, 5. Aufl., 2009, Art. 135a Rn. 3, ]ohannes Dietlein, in v. Mangoldt/Klein/Starck, GG, 6. Aufl., 2010, Art. 135a Rn. 2.

*82:この点は,例えば,本改正法案の連邦議会第3読会における連邦司法大臣Dr. von Merkatzの演説が参考になる(BT-Drs. II/227, 13527C-13525C)。

*83:例えば,CDU/CSUのLindenberg議員は,本改正による基本法135a条のうち,1項及び2項は,確認規定であると論じる(BT-Drs. II/227, 13522D-13523A)。

*84:vgl. BT-Drs. II/227, 13527C-13525C. 193. Kabinettssitzung am Dienstag, den 20. 8. 1957 TOP A. Kriegsfolgenschlußgesetz.

*85:Gesetz Nr.22 Überwachung von Stoffen, Einrichtungen und Ausrüstungen auf dem Gebiete der Atomenergie. der Alliierten Hohen Kommission vom 2. März 1950 (ABl. AHK 12 S. 122), Nr. 53 vom 26. April 1951 (ABl. AHK 54 S. 882, 60 S. 990), Nr. 68 vom 14 Dezember 1951 (ABl. AHK 72 S. 1361).

*86:基本法が占領下に制定されたことから,主権回復に関わる第4次,第7次,第17次改正は,「遅れてきた憲法制定」(nachgeholte Verfassungsgebung)と表現されることがあるが(Werner Heun, Die Verfassungsordnung der Bundesrepublik Deutschland, 2012, p. 27),本改正も,それらと同様の意義を有する改正であるとする評価もある(Busch, Andreas, The Grundgesetz After 50 Years: Analyzing Changes in the German Constitution, 1999.12, p9.)。

*87:国立国会図書館調査立法考査局「西独における原子力問題」(レファレンス62号144頁),1956年3月,144頁。

*88:Vertrag zur Regelung aus Krieg und Besatzung entstandener Fragen (BGBl. 1955 11 S. 405) . Felix Christian Mattes, Stromwirtschaft und deutsche Einheit, 2000, S. 142.

*89:前掲調査立法考査局「西独原子力法の概要と本年度の原子力に関する西独政府の事業」(レファレンス69号108頁),1956年10月,108頁。

*90:野党SPDは,与党の提出する原子力法案では,核エネルギーの利用が民間部門に委ねられてしまうことなどを問題視し,国家による強い規制を求めた( Matters, op. cit., S. 142, Atom-Gesetz. Private Spaltung. in: Der Spiegel, Nr. 25/1957, v. 19. Juni. 1957, S. 13.)。

*91:前記1956年12月の改正案(BT-Drs. II/3026)との大きな相違は,核エネルギーの利用について,「平和的目的」という限定が付された点である。

*92:対立案件でないため,「賛成多数」で成立するはずであったが,SPDが点呼投票によることを求め,結局,計数投票(羊のジャンプ方式)が実施されたところ,昼食等のため退席している議員が多かったのか,基本法改正に必要な多数を出席していないことが判明したという(Bundestag. Nae Verloren. in: Der Spiegel, Nr. 28/1957, v. 10. Juli. 1957, S. 13..)。

*93:与党議員の中には,選挙対策の必要性もあってか,原子力の利用を平和目的に限ることに抵抗があり( Matters, op. cit., S. 142-143),また,その限定が,米国による核の傘の下にいることさえも否定するに至ることへの懸念があった(Bundestag. Nae Verloren. in: Der Spiegel, Nr. 28/1957, v. 10. Juli. 1957, S. 13.. Matters, op. cit., S. 142-143.)。なお,この点については,当時の連邦原子力大臣であるフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスが,技術的・経済的前提条件の不透明さから,原子力政策について,「待ちの姿勢」を取っていたことも指摘されている(ヨアヒム・ラートカウら,山縣光晶ら[訳]『原子力と人間の歴史』,2015年10月30日,105頁から107頁)。

*94:なお,今回は記名投票によって採決がなされたが,全会一致で成立している(BT-Prot. III/92 S.5037A-S.5038C, BGBl I S.813)。

*95:ただし,その執行は州に委託することができる(本改正による基本法87c条)。また,核エネルギーに関する立法権限は,2006年の第52次改正によって,連邦の専属的立法権限として整理され直されることになる(現行基本法73条1項14号)。

*96:Gesetz über die friedliche Verwendung der Kernenergie und den Schutz gegen ihre Gefahren v. 23. Dez. 1959. (BGBl. I S. 814).

*97:本改正時の基本法87条2項1文に相当する。同項は,第42次改正で,新たに現2項が追加されたことによって,3項に繰り下げられた。

*98:行基本法72条1項6号に相当する。ただし,当時は,「連邦鉄道及び航空交通」を対象事項としていた(第40次改正参照)。

*99:Information Bulletin, No. 161, Office of Military Government for Germany (U.S.), Control Office, May 17. 1949, p.30(邦訳:憲法調査会事務局『ドイツ連邦共和国基本法の制定の経過』(国立公文書館・本館−2A−038−08・憲00115101)・資料の部196頁〜200頁).

*100:基本法が占領下に制定されたことから,主権回復に関わる第4次,第7次,第17次改正は,「遅れてきた憲法制定」(nachgeholte Verfassungsgebung)と表現されることがあるが(Werner Heun, Die Verfassungsordnung der Bundesrepublik Deutschland, 2012, p. 27),本改正も,それらと同様の意義を有する改正であるとする評価もある(Busch, Andreas, The Grundgesetz After 50 Years: Analyzing Changes in the German Constitution, 1999.12, p9.)。

*101:Johannes Stindt, Luftrettung in der Bundesrepublik Deutschland, Schriften zum öffentlichen Recht; Bd. 432, 1982, S.167. BT-Drs. III/1534, S. 2.

*102:なお,本改正で追加された87d条は,現行の同条1項1文に加え,同項2文として,「その組織が公報的な形態をとるか私法的な形態をとるかについては,連邦法律でこれを決定する」(高田敏ら(編訳)『ドイツ憲法集』〔第6版〕,2010年3月,262頁・注99)というものであった。

*103:vgl. BT-Drs. III/1534

*104:ただし,同庁の無効部が取り扱う特許の無効宣言等に関しては,大審院に出訴することができた(吉藤幸朔「ドイツ特許裁判所」,ジュリスト263号46頁,1962年12月,46頁)。

*105:ワイマール憲法下でも,特許庁の性格が問題とはなったが,抗告部及び無効部は,特別裁判所的な性格を有するとされていたという(前掲吉藤・46頁〜47頁)。

*106:連邦特許庁の組織は司法組織化されており,そのような形式を持つ限り,基本法は,連邦特許庁裁判権を付与していると理解されることになった(前掲吉藤・47頁)。

*107:BVerwG, Urteil vom 13. Juni 1959 - Aktenzeichen I C 66/57. BverwGE 8, 350. NJW 1959, 1507. GRUR 1959, 435.

*108:大渕哲也『特許審決取消訴訟基本構造論』,2003年1月,22頁以下,前掲吉藤・47頁参照。

*109:行政裁判所の三審級を保障することで,手続確定までの期間が延長されることを黙視できないことは、関係各界で異論がなかったとされる(前掲吉藤・47頁)。

*110:その外,専門性を維持するため,特許庁の抗告部おを控訴院に移管するという案もあったが,組織・人事上の問題があったとされる(前掲吉藤・47頁〜48頁)。

*111:その外,基本法19条4項に例外規定を設け,或いは,特許庁(又は特許庁の抗告部及び無効部)を裁判所とみる旨の基本法改正をすると案もあった(前掲吉藤・48頁)。

*112:現行95条1項に相当する条項であるが,当時の当該条項の文言は,「通常裁判権,行政裁判権,税財務裁判権,労働裁判権,及び社会裁判権の分野について,連邦上級裁判所が設置されるものとする。」(高田敏ら(編訳)『ドイツ憲法集』〔第6版〕,2010年3月,271頁・注114)というものであった。

*113:連邦上級裁判所は,いずれも下級裁判所の上告審と位置づけられていたが,連邦政府は,その数を増やすことに抵抗を示したされる(前掲吉藤・48頁)。

*114:特許事件は,行政機関たる特許庁の処分に対する不服を扱うが,特許問題は民事紛争と密接であることから,連邦行政裁判所ではなく,連邦通常裁判所が上告審とされることになった(前掲吉藤・49頁)。なお,このような連邦の下級裁判所の規定としては,軍刑事裁判所の規定に関する先例がある(第7次改正後の96a条3項)。

*115:その外,理論的には,事実審としての特許裁判所を州レベルの裁判所として創設することも考えられなくもないが,事件数や専門性,工業所有権が連邦の専属的立法事項(現行基本法73条1項9号)とされていることが考慮されたのであろう。他方,工業所有権の侵害に関する民事上の紛争は,民法や裁判手続が州と連邦との競合的立法事項(現行基本法74条1項1号)とされていたこともあって,州レベルの地方裁判所高等裁判所,連邦レベルの連邦通常裁判所の系列に管轄が残された(前掲吉藤・49頁)。

*116:基本法を改正しなければ,基本法に規定されない裁判所が連邦の裁判権を行使すものとして,基本法違反ということになろう(前掲大渕・24頁参照)。

*117:原田敬一「戦争の終わらせ方と戦争墓地」(佛教大学文学部論集91巻31頁),2007年3月,46頁以下。

*118:庄司潤一郎「ドイツにおける「戦争犯罪」をめぐる諸問題に関する一考察」,戦史研究年報6号46頁,2003年3月,51頁〜52頁。

*119:このような追悼の姿勢の確立は積極的に評価されるが(南守夫「ドイツ戦没者追悼史と靖国・国立墓苑問題(中)」,戦争責任研究37号26頁,2002年,36頁〜37頁),他方で,加害者と被害者を区別しないことに対する批判もある(前掲庄司・52頁)。

*120:それは連邦政府の国家政策であったのみならず,「ドイツ戦争墓地管理国民同盟」といった民間団体の意見でもあった(前掲南・29頁)。

*121:ドイツ戦争墓地管理国民同盟の外,帰還将兵の団体である「ドイツ兵士諸連盟の輪」などが運動を繰り広げ(前掲南・29頁),その「代用」として,「戦争と暴力支配の犠牲者」のための施設も検討されるようになる((Manfred Hettling, Gefallenengedenken - aber wie?, vorgänge 46. Jahrgang, Heft 1, März 2007, S. 66, S. 69.)。

*122:ただし,当該銘板は極めて簡素なものであり,あくまでも暫定的なものであった(前掲南・29頁)。また,そこでいう「暴力支配」は,東ベルリン暴動を背景に,ソ連全体主義を意識したものでもあった(前掲庄司・51頁〜52頁)。

*123:従前の戦争墓地法(Gesetz über die Sorge für Kriegsgräber v. 27. Mai 1952, BGBl. I S. 320)にいおても,州がナチスの犠牲者などの墓地に配慮する場合の規定を置いていたが(6条),州法間の法的不統一が問題とされた(BT-Drs. IV/2531, S.3.)。 なお,この戦争墓地法は,清水芳一「西ドイツ戦争墳墓法」(レファレンス25巻70号70頁,1953年3月)において訳出されている。

*124:本改正に併せ,戦争墓地法が「墓地法」に全面改正されたが(Gesetz über die Erhaltung der Gräber der Opfer von Krieg und Gewaltherrschaft v. 08. Juli 1965, BGBl. I S. 589),同法の対象者は,①第一次世界大戦の戦死者(軍隊関係者のみ)。②第二次世界大戦の戦死者,軍務および準軍務的業務において死んだもの。③第二次世界大戦の戦死者,民間人として戦争行為によって命を落としたもの。④ナチズムの暴力行為の犠牲者。⑤共産主義の不法な体制の措置による犠牲者。⑥追放された人々。⑦拉致された結果,死んだドイツ人。⑧ドイツの行政機関によって建設された強制収容所に収容され,命を落とした人々。⑨ドイツに拉致され、意思に反して捕られた人々。⑩外国人で、国際的な難民機関として認められている収容所で死んだ人々。」である(松本彰「ドイツにおける二つの世界大戦犠牲者の墓と記念碑」,歴史評論628号55頁,2002年8月,62頁)。

*125:占領3カ国との間の移行条約7章1条,2条は,西独政府に対し,西独領域内の連合国の兵士の墓地を管理する義務を負わすなどしており(BGBl. 1957 II S. 157, S.105),また,1954年10月23日の独仏合意は,仏政府に対し,西独領域内において,フランス人の戦争犠牲者の遺体を発掘することなどを認めていたが(vgl. Kerstin Schwenke, Dachauer Gedenkorte zwischen Vergessen und Erinnern, 2012, S.69-71),本改正に併せて制定された連邦墓地法(前注)では,この面での手当もなされた(BT.Drs. iV2529. S. 7)。

*126:耳慣れない用語であるが「Ausgleichsforderungen」の定訳であり,通貨改革による損失の「補償」「調整」(Ausgleich)としての「債権」(Forderung)という意味である。「相殺債権」とも訳される(三ツ石郁夫「戦後西ドイツ高度成長期における銀行業の再建と競争」,彦根論叢394号174頁,2012年,176頁)なお,夫婦の離婚等に伴い,その共同財産を精算する際に生じる「Ausgleichsforderungen」については,「調整債権」という訳例もある(山田 晟「ドイツ法律用語事典」〔改訂増補版〕,平成5年3月,56頁)。

*127:宮田喜代蔵『第二次大戦後の西独通貨改革』,1967年1月,160頁〜161頁。当初は,償還を予定しない「永久公債」であったとのことであるが(前掲三ツ石・176頁),1956年の平衡請求権償還法によって,25年〜47年で償還されることになった(前掲宮田・169頁〜171頁。)。その他,平衡請求権は,中央銀行からの借入の担保とすることができ,その買入を受けることもできた(竹中英泰「ドル危機と1961年マルク切り上げ」,北海道大学経済学研究24巻1号199頁,1974年3月,220頁・注8)。

*128:そもそも,通貨改革の時点では連邦政府が成立していなかったという事情もあって,各州が平衡請求権の債務者とされていた(前掲宮田・170頁)。

*129:ヴォルフガング・レンチュ,伊東弘文(訳)『財政基本規範と財政調整』,1995年3月,238頁〜239頁。

*130:例えば,第3次第5次第6次第8次改正は,いずれも,財政調整制度に関係してなされた改正である。

*131:前掲レンチュ・239頁。デュルクハイムの合意(Dürkheimer Abkommen)として知られる連邦財務大臣と各州の財務大臣の合意である(Nicolai Kranz, Die Bundeszuschüsse zur Sozialversicherung, Januar 1988, S.117, Anm.129.)。

*132:ただし,その後,負担調整の対象を拡大するに当たり,州の追加負担が必要となり,第24次改正において,その期限は「1969年10月1日」に延長される。

*133:もっとも,本改正は,連邦憲法裁判所の判断に従うことを前提に,実務上の混乱を避けるため,違憲判断の遡及効を制限したにすぎず,連邦憲法裁判所としても不満はなかったであろう。

各記事の内容は,事前・事後の告知なく修正・削除されることがあります。

投稿されたコメントも,事前・事後の告知なく削除されることがあります。

実験的にGoogleアナリティクスによるアクセス解析をしています。

☞ 1st party cookieによる匿名のトラフィックデータを収集します。