帝王切開の語源に関する覚書(3)

.イシドルスの『語源』

帝王切開で生まれた胎児」を意味するラテン語「caesar」が存在したことを示す古い資料としては,イシドルスの『Etymologiae(語源)』がある*1。イシドルス(Isidorus episcopus Hispalensis c.560-636)は,西ゴート朝スペインの司教であり,当時の西ゴート王国における最大の知識人と評される人物である。そして,その代表的著作のひとつが,この『Etymologiae』である。

Caesarum nomen a Iulio coepit, qui bello civili commoto primus Romanorum singularem optinuit principatum. Caesar autem dictus, quod caeso mortuae matris utero prolatus eductusque fuerit, vel quia cum caesarie natus sit. A quo et imperatores sequentes Caesares dicti, eo quod comati essent. Qui enim execto utero eximebantur, Caesones et Caesares appellabantur.

(大意)カエサルの名はユリウスに始まる。市民戦争が勃発すると,彼はローマの貴族として最初に第一の地位を獲得した。彼は,一方でカエサルと呼ばれた。死んだ母の切り取られた(caeso)子宮から見つけられ引き出されたから,あるいは長髪(caesarie)まとった子供だったからである。それ以来,同様に,跡を継いだ皇帝もカエサルと呼ばれた。この点で,彼らも髪が豊富だったからである。切り取られた子宮から取り出された者は,CaesoあるいはCaesarと呼ばれた。(

(イシドロス『Etymologiae』第9巻第3段第12節・大意)

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Harley MS 3941 f. 119v*2

この記事から,カエサルは,切り取られた子宮から生まれたため,「切り取られた」を意味する「caeso」(< caedere)という言葉に基づき,「カエサル」と呼ばれるようになり,その結果,カエサルの後,死んだ母の胎内から摘出された子供一般が,「caeso」または「caesar」と呼ばれるようになったという趣旨を読み取ることができる。先述の『Lexis仏語辞典』の見解は,この記事に基づくのであろう。

もちろん,『Etymologiae』の依拠する古代の語源学は,かなり怪しげなものであり,事実として信用できるものではない。しかし,ここでの究極的な課題は「section caesarea」の語源を求めることなのだから,「caesar」の語源が事実としてどうであったのかより,「section caesarea」という語句を造語した16世紀の医学者が,「caesar」の語源をどのように考えていたのかという方が重要である。

この点,『Etymologiae』が,中世の学生の必携書であり,16世紀までの西欧の教養の基本的な部分を形成していたという事実は重要である*3。つまり,16世紀に「section caesarea」という語句を造語した医学者たちも,この『Etymologiae』の当該記載を当然の教養として知っていたはずであり,「section caesarea」という語句を造語するにあたっても,この記事を意識していたはずであると想像することができる。

そうすると,「section caesarea」はラテン語「caesar」を元に作られた言葉であり,その大元の語源としては,「カエサル帝王切開で生まれた」という伝説と,「caedere」というラテン語が意識されていたと考えるべきであろう。

私見のまとめ

.推論の整理

ここまでの検討したところをまとめると,以下のような推論の過程を示すことができる。まず,次の事実が前提となる。

  • 「sectio caesarea」というラテン語の用例は,16世紀まで存在しない。
  • 16世紀になって初めて,生きた妊婦に対する帝王切開が成功した。

したがって,「sectio caesarea」というラテン語は,16世紀の医学者が,新たな医療技術のため,新たに造った言葉であったと考えられる。

それでは,16世紀の医学者は,この造語をするにあたり、どこから「caesarea」という言葉を持ってきたのか。

  • 6〜7世紀に書かれたイシドロスの『Etymologiae』に,「帝王切開によって生まれた胎児」を意味するラテン語「caesar」の存在が確認される。
  • イシドロスの『Etymologiae』は,16世紀までの知識人にとって,その基本的な教養の骨格をなす書物であった。

これによれば,16世紀の医学者は,このような古書に見られる「caesar」というラテン語から「sectio caesarea」を造語したと想定することができる。

ところで,イシドロスの『Etymologiae』は,「caesar」というラテン語の語源について,以下のように説明している。

  • カエサルは,切り取られた子宮から生まれたため,「切り取られた」を意味する「caeso」に由来する「カエサル」と呼ばれるようになった。
  • カエサルの事例の後,切り取られた子宮から生まれた子供のことを「caesar」と呼ぶようになった。

そうすると,16世紀の医学者も,「caesar」の語源として,カエサルの伝説と「caedere」(< caeso)というラテン語を意識していたと考えるのが自然である。

.結論と補足

以上より,私は,「sectio caesarea」という語句は,究極的には,ラテン語「caedere」(切る)に由来するが,その造語の経緯において,ユリウス・カエサルの名前を経由しているのであるから,直接的には,ローマ時代の政治家「Julius Caesar(ユリウス・カエサル)」の伝説に関係すると結論づけたい。

この結論は,実証的には弱い部分が多く,断言するのははばかられるのであるが,少なくとも「帝王切開」と「カエサル」とに関係がないと言い切ることも難しいであろう。参考編に示すように,各国の辞書でも「カエサル説」を採っているものは少なくない。

少なくとも,「Kaisersnitt」というドイツ語は誤解に基づく言葉とはいえず,その翻訳である「帝王切開」という日本語も誤訳には当たらないというべきであろう。

いずれにせよ真相は不明だが,「カエサル説」の方がロマンがあって楽しいかもしれない。
本編完

*1:この資料に言及する文献としては,『Tréosor仏語辞典』ぐらいであろうか。

*2:London, British Library, Harley MS 3941, fol. 119v. Isidore of Seville, Etymoligiae.

*3:上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成』5,509頁参照

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