帝王切開の語源に関する覚書(1)

.問題の所在

ここで問題にするのは,日本語の「帝王切開」の語源ではなく,その大元となるラテン語の「sectio caesarea」の語源である。

この点については,ネット上にもいろいろな解説があるが*1,少数異説を除き,一般には,以下の3説が流布しているようである*2

  1. ローマ時代の政治家「Julius Caesar(ユリウス・カエサル)」の伝説に由来する。すなわち,カエサル帝王切開で生まれたという伝説ないし誤解に基づくという説である。
  2. ラテン語「caedere(切る)」に由来する。すなわち,「caedere」の過去分詞「caesus」から変化したという説である。
  3. ローマ時代の法律「lex caesarean(カエサル法)」に由来する。すなわち,妊婦が妊娠したまま死亡した場合,子宮から胎児を腹部切開によって取り出すことにより,なるべく胎児を生かす努力をするよう命じたカエサル法が元になっているという説である*3

そして,2番と3番の説からは,「日本語の『帝王切開』という語は誤訳である。」という主張が導かれる。これらの説は,それぞれ権威が主張していることであり,にわかにどれが正しいと断言できるものではない(参考)。

私も素人なので,確かなことは知らないが,いろいろ検討した結果,結論として,究極的には,第2説であるが,直接的には,第1説であるという見解を示したい。その検討の過程については,次回から詳しく述べる通りであるが,議論が錯綜するので,時間がない方は結論部分のまとめを読まれることをお勧めする。

2.プリニウスの『博物誌』

カエサル帝王切開で産まれたという伝説が,プリニウスの『博物誌』の記述に由来するということは,各書が指摘するところである。

しかし,その『博物誌』の記述を文脈も含めて紹介している資料は見あたらない。そこで,手始めに,この原文から検討してみることにする。

IX. Auspicatius e necata parente gignuntur,sicut Scipio Africanus prior natus primusque Caesarum a caeso matris utero dictus,qua de causa et Caesones appellati. simili modo natus et Manilius qui Carthaginem cum exercitu intravit.

(Plinius Nat. VII, 47: The Loeb Classical Library 352, p.536)

九 分娩の際母親が死ぬのは凶兆としてはましな方だ。その例は大スキピオ・アフリカヌスとカエサル1世<ユリウス> の出生である。カエサルはその名を彼の母親に施された外科手術から得たのであり,彼の家族名カエソの起源も同様である。軍を率いてカルタゴに入城したマニリウスも同様の方法で生れた。

上段が,プリニウス『博物誌』第7巻(人間論)における当該部分の原文である*4。そして,下段が,これに対応する邦訳である。

邦訳では分かりにくいが,「彼の母親に施された外科手術から」という部分は,正確には,「切られた母親の胎内から(a caeso matris utero)」と訳すべきところであり,この一節が帝王切開を意味する文句である*5

ここで言及される「カエサル1世」が、邦訳にいうようにユリウス・カエサルのことなのかという問題もあるであるが、ここで重要なのは,プリニウスの原文には,「sectio caesarea」など「帝王切開」を直接指す語句が使われておらず,「切られた母親の胎内から」といった説明的な表現が用いられていることである。

つまり,プリニウスの時代のラテン語には,「帝王切開」を直接指す語句が無かったのではないかと推測されるのである*6

そうすると,「sectio caesarea」の語源を考える上で,このラテン語がいつごろから使われているのかが重要になってくるであろう。
続く

*1:なお,ネット上に流布した各見解のメタ分析としては,ぽん太さんの「『帝王切開の語源』のネット上の生態学(上)」以下がある。同記事中で「S7」と名付けられているのが,私の見解だと思われる。

*2:なお,後述する「caesar」説を独立の説とすれば,4説あることになる。

*3:なお,このカエサル法は,もともと王政ローマ時代の第2代ヌマ・ポンピリウス王(Numa Pompilius 715-673 BC)の「王法(lex regia)」に淵源があるようである。また『The Facts on File encyclopedia of word and phrase origins』では,この法律を「lex Cesare」とする。

*4:なお,ネット上の資料としてシカゴ大のテキストがある。ここでは,引用中の"e necata"が"enecta"になっているが,これは底本によるようである。

*5:実は,この邦訳はローブ訳(英訳)の重訳であり,ローブ訳では当該部分を"from the surgical operation performed on his mother"としている。したがって,この邦訳の分かりにくさは,ローブ訳に由来するものである。

*6:原文を当たってみるといろいろなことが分かるもので,帝王切開の語源について独自の見解を立てる「錬金屋の辞書」の信用性を判断するにあたっても,ここで示したプリニウスの引用と同サイトのプリニウスの引用とを比べることが,その一助となろう。

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