後宮の婚儀における「紅葉見」

世界悪女大全 淫乱で残虐で強欲な美人たち 桐生操の世界大全桐生操『世界悪女大全』は,西洋の「絶対王政の時代には初夜の翌朝,花嫁は処女のあかしとして,血のついたシーツを新郎の親戚や友人に公開する習慣があ」ったと説く*1。しかし,何も絶対王政の西洋に限らず*2,シーツを第三者に披露する習俗,或いは,もう少し穏当に,それを証拠として保管するという風習は,中世のヨーロッパでも*3,近代のメキシコでも *4古今東西を問わず,広く伝えられている*5。現代では,イスラム圏の習慣として問題になることもあるが*6ユダヤの古い慣習としても知られ*7,その淵源は,古代の『旧約聖書申命記22章13節以下に遡ることができる*8

日本に関しては*9,幕末明治の日本研究で有名なイギリス人の外交官アストン(William George Aston, 1841-1911)が,「古い時代」の「高貴な家庭」における同様の風習を伝えている例もあるが*10,もっと古い資料としては,京極為兼(冷泉為兼,1254-1332)の娘の著と伝えられる『後宮名目』*11が,日本の「後宮*12における「有職*13として,「紅葉見」と称する儀礼の存在を伝える。

それによれば,新婦側の家は,嫁娶の夜に白色の装束・調度を揃えるが,新婦が,「何方(いづかた)の秘事(みそかごと)もなく初(うひ)の妻」*14であれば,「秘事(みそかごと)の流れの露も,皆,紅葉の色に流るる理(ことわり)」であるから,宮廷側は,翌朝,妻方の家に,その「紅葉の色に染みたる御下裳」*15などを全て送ることになっていたというのである。これを称して「紅葉見」というとのこと,中国にあったという「見紅(験紅)」という言い方より婉曲な表現のはずであるが*16,風流なネーミングというには少し違うような気がする。

ネーミング・センスはともかく,そのような慣習自体の趣味の悪さは,同時代的にも認識されていたようであり,『後宮名目』も,「紅葉見」の慣習は,言葉で説明すると「あさましき事」であるが,「深き心ばへ」があると弁解する。すなわち,「深窓」に養われている姫君であっても,色恋の道に関しては,他人の知らないようなこともあり得るところ,結婚後,月足らずで子供が生まれたような場合に,初夜の衣類を保管し,「外(ほか)の秘事(みそかごと)」がなかったことの「証(しるし)」とする必要があるというのである。そうすると,「紅葉見」の風習の意義は,花嫁に処女性が要求されていたことにあるのではなく,長子について,血統の維持が重視されていたいうことにあるということになろうか。

世界的にみれば,この種の風習は,花嫁が処女であることが婚姻の条件等である場合*17や社会的な賞賛等の対象となる場合*18に,その処女性を証明するもの,或いは,場合によって,花婿の性的能力を証明するものとして意味づけられることが多いようであるが*19,他方で,生まれてくる子供が,花婿の子供であることを担保する手段としての意味付けがされることもある*20。前記の理解が正しければ,『後宮名目』のいう「紅葉見」の意義は,最後に挙げた種類のものに分類し得る。伝統的な日本社会では,血統の連続が必ずしも重視されない場面が少なくないように思うが,この「紅葉見」は,特に血統の維持が重視される「後宮」における慣習として理解することができよう*21

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ところで,正徳2年(1712)刊の『女中道しるべ』*22は,この「紅葉見」の風習を引いて*23,婚礼の際に白衣を着る習慣の由来と位置づける*24。また,「紅葉見」の儀礼では,2日目の夜以降は,白色ではなく,色物の夜着を用いることになっているのであるが,『女中道しるべ』は,これが「色直し」に当るという。仮に,そうであれば,現代の風習にまでつながってくる話になるのであるが,そのような話は他に伝えられておらず,俄には信じがたいところである。

そもそも,『後宮名目』の作者とされる「京極為兼の娘」の存在が不確かである。というのも,確かに,『後宮名目』の奥書*25や『女中道しるべ』の題辞*26には,作者は,「御匣殿中将」という名の「冷泉為兼娘」であると記載されているのであるが,京極為兼について,実娘はおろか,実子がいたということも知られていないからである*27。もちろん,史書上,女性の存在が残りにくいということはあろうが,為兼には,男子の実子も知られていない。井上宗雄『京極為兼』も,同女の存在について,「一種の伝承としてみておくべきであろう。」とする*28

前記「御匣殿中将」とは,「御匣殿」に仕えた「中将」という出仕名の女房の謂であると思われるが,他方で,『後宮名目』の奥書には,同書が「鎌倉将軍家之御台所」に献じられたものであると記載されている*29。同書が偽書でないとすれば,①後深草天皇(1243-1304)の妃・三条房子が「御匣殿」と称されていること*30,②同女所生の久明親王(1276-1328)が鎌倉第8代将軍となっていること,③同将軍の室に冷泉為相の娘がいること④冷泉為相(1263-1328)と京極為兼(1254-1332)は,伯父甥の関係にあるが同世代に属することなどの事情が混乱しているのかもしれない*31。前掲井上『京極為兼』も,『後宮名目』の作者について,「冷泉為相女の方が似合わしいように思える。」としているところである*32

*1:桐生操『世界悪女大全』,文春文庫,2006年,294頁。

*2:実際,桐生前掲書も,続く部分で,何故か,モロッコのファス王国の事例や古代ローマの事例を挙げる。

*3:Bietenholz, Peter G., Historia and Fabula. Brill Academic Pub., 1997, p.105.

*4:Gonzalez-Lopez, Gloria, Erotic Journeys. University of California Press, 2005, pp.126-127.

*5:Ember, Carol R. et Ember, eds. Encyclopedia of Sex and Gender. Routledge, 1994, p.180. Monger, George P., Marriage Customs of the World. p.82.

*6:Hussain, Freda, Muslim Women. Croom Helem, 1984, p.56. ファティマ・メルシーニー『ヴェールよさらば』,心泉社,2003年,84頁。

*7:Sperber, Daniel et al. Why Jews Do What They Do. Ktav Pub. Inc., 1999, n.7, p.6.

*8:Monger, op. cit., p.83. 馬場嘉市『新聖書大辞典』,1971年, 531頁。

*9:なお,琉球王国の風習としては,朝鮮の使者李繼孫が,1462年,「男家以幣帛行聘禮, 定約後男先設宴於女家而還, 女又設宴於男家, 仍行夫婦禮畢。與媒人設席別房, 共飮後同女母, 取白帕而取花。若婦人無花, 告官褰出, 取回聘物, 妻母問妻坐罪。」との情報を本国に伝えている(朝鮮王朝実録,世祖恵荘大王実録巻27,世祖8年2月癸巳)。

*10:フリートリッヒ・S・クラウス,安田一郎(訳)『日本人の性生活』,青土社,2000年,228頁。なお,アストンに関しては,原著旧版の抄訳である同『日本人の性と習俗』(1978年,桃源社)・3頁にフルネームの記載がある。

*11:以下の記述は,原則として,国立国会図書館蔵『後宮名目』(請求記号197−202,以下「国会図書館本」と略する。),早稲田大学図書館蔵『后宮名目』(ワ03−06297,以下「早大単行本」と略する。),同『連城叢書・廿七』(イ04−00696−0127,以下「連城叢書本」という。)に基づき,引用は,句読点を加え,仮名を漢字に改めるなどの校訂をした後のものである。なお,物集高見『広文庫』(第8冊・233頁)は,『后宮名目抄』(上・四)として,同書のうち「紅葉見」の部分を抄録しており,天野信景『塩尻』巻48(日本随筆大成〈第三期〉14巻・491頁)は,「後宮名目三巻」からのメモ書きとして,同書のうち「紅葉見」の部分を要録しており,いずれも適宜に参照した。

*12:連城叢書本は,「ゴグウ」と振り仮名を付する。

*13:早大単行本は,「有識」の字句を用いる。

*14:ただし,「初」について,国会図書館本は「うゐ」,連城叢書本は「うい」の仮名遣いをする。

*15:ただし,早大単行本は「そみたる」を「そみつきたる」とする。

*16:劉達臨,鈴木博(訳)『中国性愛文化』,青土社,2003年,304頁。

*17:Ember et Ember, op. cit. Gonzalez-Lopez, op. cit. p.127.

*18:Monger, op. cit., Ember et Ember, op. cit. pp.180-181.

*19:Monger, op. cit.,p.148, Bietenholz, op. cit.

*20:Monger, op. cit.,p.82.

*21:もっとも,同書が,月足らずで子供が生まれた例として,藤原基俊の妻の例という「後宮」の事例でない例を挙げていることには注意が必要である。なお,基俊の妻としては,源隆国女,藤原定成女が知られているが,両女について,そのような逸話があるのか,管見の限り,確認することはできなかった。

*22:以下の記述は,原則として,『近世女子教育思想』巻2所収の翻刻版(武家時代所額叢書の復刻版),『江戸時代女性文庫』34所収の影印本(東京国立博物館の所蔵本)に基づく。

*23:ただし,書名は『後宮名目』ではなく,『女名目抄』となっている。両者には若干の異同があるようであり,その系譜関係は,なお調査する余地がある。

*24:前掲『広文庫』における「紅葉見」の項目も,その配列からすると,婚礼衣装が白衣であることの由来として引いていると考える余地がある。

*25:連城叢書本にのみ,「右者御櫛笥殿中将(冷泉為兼娘なり)作也」とある。

*26:前掲『江戸時代女性文庫』本には,「此書はむかし御匣殿中将(冷泉為兼卿の御むすめ)…えらびまいらせ女名目抄となづけ給ふとなり」とある。ただし,前掲『近世女子教育思想』本には,「御匣殿の中居」とある。

*27:井上宗雄『京極為兼』,吉川弘文館,2006年,238頁。

*28:前掲井上・246頁。

*29:連城叢書本にのみ「献鎌倉将軍家之御台所之書也」とある。ただし,『女中道しるべ』の奥書は,『女名目抄』について,「将軍家の御台所」の所望とするだけであり,室町将軍家の御台所のことである可能性は否定されない。

*30:『増鏡』「さしぐし」・久明親王将軍宣下の部分参照。

*31:なお,久明親王の東下に同行した公卿として源(堀川)基俊がいるところ(『一大要記』),前掲注に指摘した「藤原基俊」が,「源基俊」の間違いである可能性も考えられよう。

*32:前掲井上・同頁。

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