平安時代の死刑執行停止

第1 問題の所在

日本においては,弘仁元年(810年)藤原仲成が誅殺されて後*1,保元元年(1156年)源為義らが成敗されるまで,死刑が執行されることはなかったと理解するのが通説的な見解である国史大事典*2。この見解は,死刑が再開された際の『保元物語*3の記述などにより,一般にも広く流布しているようである*4

細かく言えば,水戸藩の『大日本史*5以来,死刑が停止されていたのは「朝臣」(又は「公卿」)に対してのみであるとする反対説もあるのであるが(石井良助『日本刑事法史』*6,古くから批判されているように(瀧川政次郎『日本法制史研究』*7,そのように限定する史料的な根拠はないと思われる*8

しかし,よく考えてみると,上記の期間内においても,例えば,東国に乱を起した平将門が,天慶2年(940年)下野国押領使藤原秀郷*9に討殺されているし*10,刃傷沙汰を起した藤原斉明が,寛和3年(987年),追討の官符を受けて梟首されているなど*11,朝廷の命を受けて誅殺された者は少なくない。これは死刑の執行に当たらないのであろうか。

諸書のなかには,将門が誅殺された事例等を「特例」というものもみられる(石井良助『法制史』*12。しかし,後述のとおり,将門の乱のような大規模な反乱の場合に限らず,死刑の停止期間中に同様の誅殺がなされた事例は,少なからず記録されているのであり,これらを「特例」として処理してしまうのは無理があるように思われる。

評論家の唐沢俊一は,これをもって,「武士階級の間では殺伐とした殺し合い、そして死刑が行われて」おり,「死刑がない理想の国、などというのは天皇とその周辺貴族たちだけの、幻想の世界であったのだ。」などと評する唐沢俊一唐沢俊一のトンデモ事件簿*13』)。それを「幻想」で説明してしまうのは安易な気がするが*14,これらの事実は,法制史学上,どのように説明されるべきであろうか。

第2 緊急措置としての誅殺

元検事の山本石樹は,これらの事例等は,反乱討伐,犯人追補に当たって,敢えて抵抗する者に対してした緊急避難措置であり,死刑に当たらないとする(山本石樹『王朝法制と死刑停廃・恩赦・放免の研究』*15。確かに,現代の死刑廃止国でも,人質を取って立てこもる武装テロリストを射殺することはあるであろうし*16,一般通念からしても,これを死刑の執行とはいわないであろう。この議論で説明がつくのであれば,死刑の停止に対する「特例」を認める必要もなくなる。

そして,山本は,このような緊急措置としての誅殺例として,先に指摘した将門や斉明の事例の外,天徳2年(958年),京の獄を襲って囚人の奪取を図った者らが獄門前で打殺,摂津で射殺された事例*17,治安4年(1024年)藤原顕長を人質にとった強盗が逃走時に射殺された事例*18,長元元年(1028年),禁中に入った盗人が宜秋門付近で射殺された事例*19,嘉保2年(1095年)藤原師実の部屋に入った盗人が陰明門付近で射殺された事例*20をあげる*21

また,山本は特に摘示してしないが,そのほか,貞観17年(875年)下野国の盗賊27人が殺害された事例*22,延喜6年(906年)鈴鹿山の群盗16人が誅殺された事例*23,正暦3年(992年)阿波国の海賊16人が追討された事例*24,天喜4年(1056年)大和国の国追捕使らが,冷泉天皇を刃傷した犯人山村頼正の子息国正の首級を上げた事例*25なども,同様の範疇に含めて理解することができそうである。

第3 専断処分としての私刑

他方,法制史家の利光三津夫は,このような事例について,官民が,死刑停止の法令に違反し,独断で死刑を執行した「専断」事例にすぎないと位置づける利光三津夫「平安時代における死刑停止について」*26。この見解によれば,山本のいう「緊急避難」として説明しにくい事例を処理できるという利点がある。山本も,私刑としての殺害にすぎないと評価できるのであれば,ここで問題とする「死刑」には当たらないという結論は争わないと思われる*27

特に,検非違使別当であった源経成*28の事例は,「専断」で説明した方が良さそうである*29。というのも,経成は,自ら「獄をおさむる間、死罪に行ものおぼゆる処卅人」続古事談*30と告白しており,これが事実であれば,「緊急避難」としての誅殺と説明するのは困難であるからである*31。経成は,そのほか,三井寺の強盗の首領である浜人丸を「死罪」にしたとも伝えられるが続古事談*32,これも専断処分としての「私刑」にすぎないといわれている*33

また,同じく法制史家の布施弥平治も,「朝議を経ずに斬った例」として,前示の大和国の国追捕使の事例や浜人丸の事例の外,陸奥守藤原師綱が,藤原基衡の意を受けて反抗した大庄司佐藤季春を処刑した事例を挙げる(布施弥平治『修訂日本死刑史』*34。この事例でも,季春は既に召し捕らえられており,基衡の助命嘆願にもかかわらず斬殺されたとされ古事談*35,「緊急措置」として説明することは困難である。

第4 私刑と公刑の相対性

しかし,検非違使など公的な立場にある者が,職務の執行に付随してした誅殺が,朝廷の直接の命令がなかったからといって,「私刑」となるのであろうか。しかも,その「私刑」は,後に朝廷によって褒賞されてさえいる*36。実際,日本史研究者の戸川点は,「これらの事例は、国家による死刑停止という建前を補う「公」的なものであり…平安時代に実態として死刑が行われていたことを示す」(戸川点「軍記物語に見る死刑・梟首」*37とし,その公的な性格を指摘する*38

他方,日本中世史家の元木泰雄は,「治外法権」ともいうべき武士の所領では,郎従らに対して死刑が日常的に行われていたと指摘し*39,武士相互の私合戦に際して,敗者が殺害されることは「武士の慣習」でであったなどとする元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』*40。この視点によれば,いわば律令法制の枠外に,死刑が許される「武士の慣習」,一種の「武家法」の世界があったと捉えることができよう*41

正確にいえば,元木のいう「治外法権」的な死刑は,武士的な主従関係に限らず,藤原忠実による法橋寛誉の処刑のように台記*42摂関家興福寺・同末寺の僧徒に対する支配関係のなかにもみられるから,朝廷を中心とする法域と,それとは相対的に独立した法域の併存というべきであろうか*43。いずれにせよ,そのような「私的」人身支配にも,一定の「公的」な性格を見いだすことは可能であり,これに基づく死刑を単純に「私刑」ということはできないであろう*44

第5 死刑の再開の相対性

ところで,叙上のように死刑停止の意義が相対化されるとなると,保元の乱における死刑の再開も相対化せねばならない。というのも,保元の乱において処刑されたのは武士に限られ,武士相互の私合戦における武士の慣習の延長にすぎないといえるからである(元木恭雄編「院政の展開と内乱」*45平治の乱に至ると,公家である藤原信頼も処刑されることになるが,信頼は自ら武装して戦闘に加わっており,武士に準じて扱われたとみることができる*46

しかも,その後,保元・平治の乱の前例が,前例として定着したわけでもない。引き続く治承・寿永の乱で捕虜となった平宗盛について,九条兼実は,保元の前例に人心は納得しておらず,「我朝不行死罪」の原則によるべきであると主張した玉葉*47。結局,宗盛は,源頼朝が勅許を得て鎌倉で処刑することになるが,保元の前例を踏襲するかという問題というより,「公家法」と「武家法」の優劣の問題ににすぎないというべきであろう上横手雅敬「「建永の法難」について」*48

そして,鎌倉以後についても,「公家法」において死刑の停止が継続していたことを示す史料がある。例えば,建久2年(1191年)佐々木定綱,定重父子と延暦寺との間に紛争が生じた際,後白河法皇は,死刑の「嵯峨天皇以来停止」という原則を維持する旨の院宣を出している吾妻鏡*49。また,同年の記録には,強盗の死刑が免じられて釈放されるため,京中の強盗が減らず,これを鎌倉に引き渡して遠流にしたという記事もみえる(都玉記*50

他方,後鳥羽上皇は,建永2年(1207年)において,法然の門弟を死刑に処している。しかし,これも結局,そのための公的な手続がとられておらず,法的な根拠も見出せないことなどを重視すれば,上皇による「私刑」にすぎないと評価することになる上横手雅敬「「建永の法難」について」*51。もとより,「権門としての王朝国家」が「院というイエ的世界」で刑罰を執行したという観点によれば,「私刑」とは「簡単にいえない」ことになるが(遠藤一「承元の法難について」*52,それも相対的な問題である。

第6 結論

以上を整理すると,⑴弘仁以降に停止されていた「死刑」とは,朝廷の規律する刑罰としての死刑に限られ,朝廷の権威に由来するものであっても,反乱の討伐等に伴う誅殺や正規の命令に基づかない私刑は容認され,また,朝廷の規律・権威の枠外にある武士同士の関係や主従性的な支配関係の中では,刑罰としての処刑も特に違法視されていたわけではない,⑵しかし,他方で,このような限定された意味での「死刑」の停止であれば,保元の乱以降も継続していたとみることができるということになろう。

*1:ただし,仲成の誅殺は,法に基づく死刑の執行ではなく,後述する「私刑」に近い元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』,日本放送出版協会,2004年,126頁)

*2:国史大事典「弘仁元年に藤原仲成が誅された後は、朝廷ではたとえ死刑が判決されても、別勅で一等を減じて遠流に処する慣例が生じ、後白河天皇の保元元年(一一五六)に、藤原通憲の請により源為義らにこれを科するまで、二十六代三百四十六年間、実際上死刑が執行されることはなかった」(死刑/石井良助/ジャパンナレッジ版)

*3:保元物語(半井本,中巻「忠正、家弘等誅セラルル事」)「吾朝ニハ、昔、嵯峨天皇御時、右衛門督仲成ガ被誅テヨリ以来、「死者二度生不被返。不便ノ事也」トテ議定有テ、死罪ヲ被止テ、年久シ。」新日本古典文学大系43・96頁)。ただし,陽明文庫本は,仲成の死一等を免じ,「遠国へ遣はされしより以来」(新編日本古典文学全集41・336頁),死刑が停止されたとする上横手雅敬「「建永の法難」について」,同編『鎌倉時代の権力と制度』235頁,思文閣出版,2008年,250〜251頁参照)

*4:戸川点「軍記物語に見る死刑・梟首」(歴史研究637・54頁,校倉書房,2003年)は,「こうした死刑に対する認識は『日本霊異記』や『保元物語」の記事の中に見られ、おそらく『保元物語』の影響などで流布していったものと思われる。」(55頁)と指摘する。

*5:大日本史(列伝75・藤原通憲「右大臣藤原雅定大納言藤原伊通等議曰、嵯峨帝以後、未嘗加死刑於朝臣、柰何今遽論殺之」国立国会図書館蔵本・YDM740・148巻11丁),同(志114・刑法2)「自弘仁誅仲成、三百四十餘年、公卿無一人抵大辟者、至是行之於諒闇、世以爲淫刑、[保元物語]」(同・357巻18丁)

*6: 石井良助『日本刑事法史』 ,創文社,1986年,42頁・注7(46頁)。同旨:同「刑罰の歴史(日本)」(法律學体系),日本評論社,1952年,50頁・注7(51頁),平松義郎「日本刑罰夜話」(江戸の罪と罰),1988年,89頁。ただし,石井は,前掲『国史大事典』の記事などにおいては,朝臣のみに限るとの留保を付しておらず,『日本法制史概要』(1983年,50頁)においては,「少なくとも朝臣につき」とする。

*7:瀧川政次郎『日本法制史研究』,有斐閣,1941年,81頁〜83頁,同『日本法制史の特色』,野村書店,1948年,198頁~200頁。その要旨は,①『大日本史』による『保元物語』の引用は不正確である,②仲成自身,四位にすぎなかったから「公卿」に当たらない,③死刑停止にかかる太政官(類従三代格巻20・応定罪人配役年限事)は,対象を朝臣に限定していないというものである。

*8:利光三津夫『律の研究』明治書院,1961年,305頁〜306頁)は,死刑に処すべき庶民を減刑した事例(三代実録・天安2年12月8日条,貞観2年閏10月25日条)を指摘し,『大日本史』の見解を「史料に基づかない史論」であり,「明治以後の歴史家は、多く、弘仁の死刑停止が、公卿のみならず、一般庶民に対しても行なわれたことを認めるに至った」とする。

*9:藤原秀郷は,将門討伐のために押領使に任じられたものとされる(林陸朗『古代末期の反乱』,教育社,1977年,133頁)。ちなみに,大岡昇平将門記」は,これに反し,「下野押領使とあるが、これも恐らくは戦いが終ってからの任命…であろう。秀郷はもとより下野の大土豪であるが、その経歴はかなり怪しい。」とする(同『大岡昇平全集』7・3頁,中央公論社,1974年,39頁)

*10:日本紀略・天慶2年12月27日条〜同3年2月15日条(後編2,国史大系5・825〜827頁)。貞信公記・天慶2年2月12日条〜同3年5月10日条(大日本古記録・貞信公記抄・183頁〜206頁)

*11:小右記・寛和3年3月22日条,同月27日条,同年4月22日条(大日本古記録・小右記1・88頁,89頁,94頁)日本紀略・寛和3年5月13日,同月20日条(後編8,国史大系5・986頁)

*12:石井良助『法制史』,体系日本史叢書4,山川出版社,1964年,76頁(なお,同書は,石井良助「編」とされているが,その「まえがき」にあるとおり,石井の単独執筆である。)。同旨:三原憲三『死刑廃止の研究』〔第5版〕,成文堂,2006年,47頁。

*13:唐沢俊一唐沢俊一のトンデモ事件簿』,三才ブックス,2008年,93〜94頁。なお,同書は,藤原斉明を「京の都を荒らし回った盗賊」とするが,斉明は,藤原季孝に対する刃傷事件に関わったことが記録されるだけのようである。弟の藤原保輔や袴垂保輔との混同があろうか。

*14:例えば,利光三津夫「平安時代における死刑停止について」(法学研究35巻9号18頁,1962年)は,「為政者達は、…下級官吏が死刑を専断することを容認し、これに恩賞をすら与え」ていたと指摘する(22頁)

*15:山本石樹『王朝法制と死刑停廃・恩赦・放免の研究』,名玄書房,1980年,56〜57頁。実際,同書も指摘するように,補亡律には,武器を持って抵抗する罪人や逃走する罪人を殺した場合等は罪に問わないとあり,犯人追補の際の殺害は法律上も許容されている(「捕罪人而罪人持仗拒捍其捕者格殺之及逐而殺若迫窘而自殺者皆勿論」,法曹至要鈔・上56・追補事,早稲田大学図書館蔵本・ワ03−02482・巻1・46〜47丁)。

*16:例えば,報道によれば,死刑廃止国であるフランスにおいて,2012年3月22日,警察の特殊部隊が,ユダヤ人学校などで銃撃事件を起こし,アパートに立てこもっていた容疑者が,発砲しながら逃亡しようとしたところを射殺したというトゥールーズ(フランス):22日/ロイター)。詳細な事実関係,フランス国内法上の根拠は調べていないが,この射殺は,狭義の正当防衛,緊急避難にも当たらない場合のように思われる。

*17:日本紀略・天徳2年4月10日条、14日条「十日辛酉 夜。強盗打破右獄。奪取囚人。九人中一人。於獄門前打殺…十四日乙丑。去十日逃脱右獄主人八人。於摂津国追捕。篭本禁了。之中二人射殺了。」国史大系5・872頁)

*18:小右記・治安4年3月11日条「十一日戊戌 検非違使左衛門尉顕輔云、昨日…令通盗人、申云、得顕長可免母者、此間臨夜、顕長入戸内、脱母難、盗云、可得上馬鞍幷弓箭太刀絹三疋粮者、家人等皆悉与盗…、又見之、夜深与顕長乗馬、顕長乗鞍、盗騎馬尻、此間閉門不入雑人、漸欲出門、々左右腋有人、驚而帰入、即追却、次開出行之間未及町、使官人随兵後聞直方郎等、射盗、其矢射自背、少許当顕長、此間射矢如雨、六隻立身、即死者」(史料大成3・13〜14頁)

*19:小右記・長元元年11月30日条「卅日庚申 早朝番長保式申云、去夜、丑三剋、盗人於殿上口、剥下女衣、滝口某丸与出納談雑事之間、驚呼言走向、於右兵衛陣辺、射盗人、已中其矢、猶遁走入中和門、又於門内射臥、已死者」(史料大成3・184〜185頁)

*20:中右記・嘉保2年12月6日条「六日 天晴…今夕除目之間、大殿御直盧窃盗入取御几帳帷走出之間、於右衛門陣前、滝口兼政射殺了、召検非違使忠重有其沙汰也、今夕宿仕、」(史料大成8・309頁~310頁)

*21:山本石樹『王朝法制と死刑停廃・恩赦・放免の研究』,名玄書房,1980年,56〜60頁。ただし,利光三津夫は,斉明の事例について,後述するとり,官民が死刑を「専断」した場合に当たると位置づけている(同「平安時代における死刑停止について」,法学研究35巻9号,慶應義塾大学法学研究会,1962年,21〜22頁)

*22:日本三代実録貞観17年7月5日条(巻27,国史大系・4,416頁)。ただし,当該事例では,朝廷が,帰服した者4人についても,首謀者を殺すよう「勅」したとされており(「歸降俘囚四人。勅。殺服降者。所不忍者。若非元兇宜全首。」),事実上,死刑の執行がなされた例とみる余地も十分にある。実際,利光三津夫は,当該事例について,刑法上の死刑とは性質を異にするものであるが,死刑の執行停止に対する「例外中の例外」であるとしている(同『律の研究』,明治書院,1961年,331〜332頁)

*23:日本紀略・延喜6年9月20日条国史大系5・786頁)鈴鹿山群盗十六人。令進過状。誅殺之。」とするものであり,天皇から群盗対策が進まないことを責められ(「令進過状」),本腰を入れて討伐したところ,結果として,殺害に至ったものとして理解すべきであろう。なお,利光三津夫は,「一見、朝廷が死刑を執行した史料の如くもみえるが、紀略の記載は簡略に過ぎ、以て柾となすに足りない。」とする(同『律の研究』,明治書院,1961年,333頁・注5)。しかし,

*24:日本紀略・正暦3年11月30日条以下国史大系5・1014頁)。ただし,次章に示すとおり,利光三津夫は,この事例について,「追捕使が、犯人を捕えて、死刑を専断した」ものと理解している(同「平安時代における死刑停止について」(法学研究35巻9号18頁),慶應義塾大学法学研究会,1962年,21頁~22頁)

*25:快円・東大寺別当次第・67・権大僧都覺源早稲田大学図書館蔵・ハ−04−03117−0024)東南院文書2ノ5(平安遺文3巻885頁・795号以下,大日本古文書家わけ第十八冊49頁・434号以下)。参照:布施弥平治『修訂日本死刑史』,巌南堂書店,1983年,177頁,下向井竜彦「天喜四年四月二十三日東大寺境内殺害事件をめぐる二つの問題 : 犯人山村頼正の犯罪と追捕使源宗佐の武力編成」(史人2巻,58頁),広島大学学校教育学部下向井研究室,1988年。

*26:利光三津夫「平安時代における死刑停止について」(法学研究35巻9号18頁),慶應義塾大学法学研究会,1962年,21〜22頁。同旨:『律の研究』,明治書院,1961年,333頁・注5。ただし,利光が具体的に示す実例は,次段落に示す経成の事例の外,先に指摘した斉明の誅殺例,正暦3年の海賊の誅殺例,治安4年の強盗の誅殺例である。

*27:例えば,次の段落で紹介する源経成の所伝について,山本は,「仮りに経成が獄囚を死に致した事例があったとしてもリンチというべく,これは公家による裁断ではないので死刑ということはできない。と思料する。」(山本石樹『王朝法制と死刑停廃・恩赦・放免の研究』,名玄書房,1980年,64頁)などとする。

*28:後注のとおり,典拠によって,経成,経衡,朝成の名が混乱するが,経成に従うべきか川端善明荒木浩校注『古事談 続古事談』(新日本古典文学大系41),岩波書店,2005年,440頁・脚注,神田邦彦「『十訓抄』に見る藤原朝成の説話について」(二松学舎大学人文論叢71巻49頁),二松学舎大学人文学会,2003年,56頁,大日本史(列伝74,源経成),国立国会図書館,YDM740・147巻5丁)。ただし,朝成が正しいとする見解もある(小林保治校注『古事談 下』(古典文庫62),現代思潮社,1981年,71頁・頭注,河村全二注釈『十訓抄全注釈』(新典社注釈叢書6),新典社,1994年,764頁)

*29:利光三津夫「平安時代における死刑停止について」(法学研究35巻9号18頁),慶應義塾大学法学研究会,1962年,23頁・注5,同『律の研究』,明治書院,1961年,333頁・注5。参照:山本石樹『王朝法制と死刑停廃・恩赦・放免の研究』,名玄書房,1980年,63〜64頁。

*30:続古事談・巻2の44(臣節,新日本古典文学大系41・698頁)。ただし,前注のとおり,古事談・巻5の8は,「経成卿…強盗百人捌頚者」(神社仏寺,同・439頁),十訓抄・10の75は,「朝成卿…、強盗百人が頸を切るものなり」(新編日本古典文学全集51・482頁)とし,古典文庫411の寝覚記は,経成,経衡,朝成の名を混在させる(慈悲ふかゝるべき事,42頁)

*31:前章の山本は,続古事談が伝えるような死刑が,私刑として行われていた可能性は留保しつつも,後世の説話が伝えるものにすぎず,当時の史籍による裏付けがないことを指摘し,「全容の否定はできないにしても,直ちに真実ということはできない」とする(山本石樹『王朝法制と死刑停廃・恩赦・放免の研究』,名玄書房,1980年,63〜64頁)

*32:続古事談・巻2の43「此経成、別当の時、三井寺の強盗の首、浜人丸と云童ありけり。死罪にをこなふ。」(臣節,新日本古典文学大系41・698頁)

*33:前掲利光の外:川端善明荒木浩校注『古事談 続古事談』(新日本古典文学大系41),岩波書店,2005年,699頁・注9,布施弥平治『修訂日本死刑史』,巌南堂書店,1983年,177頁。参照:山本石樹『王朝法制と死刑停廃・恩赦・放免の研究』,名玄書房,1980年,63〜64頁。

*34:布施弥平治『修訂日本死刑史』,巌南堂書店,1983年,178頁。「朝議を経たもの」ではないから,「死刑の廃止期間中の特例ではない」とするようである(同・177頁)

*35:古事談・巻4の25(勇士,国史大系15・107頁〜108頁)。ただし,十訓抄・10の74(新編日本古典文学全集51・482頁)は,基衡自身が殺害し,師綱に差し出したとする。

*36:利光三津夫「平安時代における死刑停止について」(法学研究35巻9号),慶應義塾大学法学研究会,1962年,21〜22頁。例えば,前掲斉明の事例において,日本紀略(寛和元年5月20日条)には,「可有勧賞之由,被宣下畢」国史大系5・986頁)とある。

*37:戸川点「軍記物語に見る死刑・梟首」(歴史研究637巻54頁),校倉書房,2003年,63頁〜64頁・注13。なお,ここで戸川のいう「これらの事例」とは,先に示した藤原顕長の事例と後に示す藤原忠実の事例である。

*38:仏教史家の遠藤一は,このことを「建前は死刑忌避、実際は死刑実施というダブルスタンダードであった」などと表現する(同「建永の法難について」・仏教史研究46巻・14頁,永田文昌堂,2010年,43頁・注23)

*39:そのことを示す具体的な典拠の指摘はないが,元木によれば,「武士が所領で死刑を行っていたことはよく知られている」事実らしい(上横手正敬ら『院政平氏、鎌倉政権』,中央公論新社,2002年,74頁・元木泰雄執筆部分)

*40:元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス),日本放送出版協会,2004年,126頁〜127頁。参考:上横手正敬ら『院政平氏、鎌倉政権』,中央公論新社,2002年,86頁(元木泰雄執筆部分)。

*41:この考え方によれば,先に引用した唐沢の評価も,死刑を許容する「武士階級」の法と死刑を停止した「天皇とその周辺貴族」の法の対置をいうものとして理解することができ,あながち間違いではなかったことになろう。

*42:台記(久安3年10月24日条)「廿四日甲寅、人傳、禪閣殺法橋寛譽、世以爲刑罸過於法」(史料大観1上,233頁)。参照:上横手正敬ら『院政平氏、鎌倉政権』,中央公論新社,2002年,74頁(元木泰雄執筆部分)。

*43:元木は,「公法と異なる独自の規範によって制裁を加えられていた」と評する(元木恭雄『院政期政治史研究』,思文閣出版,1996年,222頁,同「摂関家における私的制裁について」,日本史研究255号,32頁,46頁)

*44:戸川は,「摂関家内部の私的制裁に関するもので、しかも法に過ぎるものと評されているが、刑罰として法橋寛誉は殺されているのである」と強調する(戸川点「軍記物語に見る死刑・梟首」,歴史研究637号・54頁,校倉書房,2003年,57頁)

*45:元木恭雄編『院政の展開と内乱』(日本の時代史7),吉川弘文館,2012年,67頁(元木泰雄執筆部分)。同旨:戸川点「軍記物語に見る死刑・梟首」(歴史研究637号,54頁),校倉書房,2003年,61頁〜62頁。

*46:元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス),日本放送出版協会,2004年,209頁〜210頁,上横手雅敬「「建永の法難」について」(同編『鎌倉時代の権力と制度』,思文閣出版,2008年,235頁),253頁。

*47:玉葉(元暦2年4月21日条)「前内府事也…可梟首之由雖無疑、爲生虜參上、其上可賜死之由難被仰、我朝不行死罪之故也、保元有此例、時人不甘心、仍今度、無左右可被處遠流也、」(巻42,国書刊行会校・1907年・巻3・76頁)。なお,「爲生虜參上」という部分は,「緊急措置としての誅殺」の例によることはできないとして理解することができる。

*48:上横手雅敬「「建永の法難」について」(同編『鎌倉時代の権力と制度』,思文閣出版,2008年,235頁),253〜255頁。同書は,「鎌倉時代になっても、公家法では遠流が最高刑であって、死罪は行われていない」,「公家法は武家・寺社等の法に対して、必ずしも上位規範としての優越性を保っていたとはいえず幕府や寺社の要求を容れ、公家法の原則を維持し得ない場合もあった」とする。

*49:吾妻鏡(建久2年5月8日条)院宣云…縦不行斬刑、於給其身之条者同死罪、仍都以不可裁許、凡件刑法者、嵯峨天皇以来、停止之後多経年代、仍不致裁報之間…仍以遠流比死罪、以禁固代斬刑」(巻10,国書刊行会校・1915年・巻1・373頁)。参照:玉葉・建久2年4月26日条(巻60,国書刊行会校・1907年・巻3・684頁)

*50:都玉記(建久2年11月22日条)「十一月廿二日、丁卯、京中強盗等所被遣前大將許也、於六條河原、官人渡武士云々、見在十人也、於死罪者停止、年來官人下部等、有容隱之時、雖強盗、頗加寛宥、赦令時原免、如本又犯之仍遣關東可遣夷島云々、永不可歸京、是又非死罪、將軍奏請云々、人以甘心」大日本史料4編3冊742頁)

*51:上横手雅敬「「建永の法難」について」(同編『鎌倉時代の権力と制度』,思文閣出版,2008年,235頁),257頁。同旨:同『日本史の快楽』,講談社,1996年,80頁,梯實圓ら『念仏と流罪』,本願寺出版社,2008年,102〜103頁(平松令三執筆部分),真宗教団連合編『親鸞』,朝日新聞出版,2009年,78頁(平松令三執筆部分),平雅行『歴史のなかに見る親鴛』,法蔵館,2011年,76頁〜79頁。

*52:遠藤一「承元の法難について」(同和教育研究30巻,16頁),同和教育振興会,2010年,48頁〜50頁,60頁・注Vii。同旨:同「建永の法難について」(仏教史研究46巻,14頁),永田文昌堂,2010年,40〜41頁・注3。ただし,遠藤も,「超法規的刑罰の執行」,「私的制裁の色が強いもの」であることは認めている(同「承元の法難について」(同和教育研究30巻,16頁),同和教育振興会,2010年,48頁〜50頁)

*53:「廿日…抑聞、仙洞御所侍去十七日於六条河原被刎首了、此御所侍院御気色快然、傍若無人也、而女官密通懐妊了、露顕之間夫婦被追出了、一両年事云々、御所侍篭居之間、御免事就内外連々雖嘆申無勅許之処、去十六日仙洞へ推参直奏申、只今無御免者生涯可存定之由嗷々申之間、門番衆讃州被仰召捕了、以広橋室町殿へ可被討之由被申、然而公家御沙汰誅戮如何之間可被流罪之由被申、猶只可被討之由重被申之間、其上事可為時宜之由被申云々、仍十七日被被刎首了、公家御沙汰以外事云々」(看聞日記・応永27年9月20日条)

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