法令番号の沿革

第1 問題の所在

法令番号とは,「民事訴訟法」を「平成8年法律第109号」と,「会社法施行規則」を「平成18年法務省令第28号」というように,法令の公布の際,法令の種類,制定者,暦年ごとに,法令に付けられる一連番号のことであり,法令を特定するものであるが,法令の一部をなすものではない*1

訓令,告示についても,「警察庁における文書の管理に関する訓令」を「平成13年警察庁訓令第8号」というなど,法令番号に類似した訓令番号,告示番号等が付される。通達,通知の類については,やや趣旨が異なるが,「改元に伴う国債証券等の取扱いについて」を「平成元年1月9日大蔵省蔵理第54号理財局長依命通知」というように,これに類似した文書番号等によって特定されるのが通例である。

これらの番号の根拠として,省令,条例以下の法令番号,或いは文書番号については,各省庁,各自治体の文書管理規程等に一応の定めがある場合が少なくないが*2,法律,政令レベルの法令番号については,特段の定めがなく,慣習に基づくものと位置付けられているようである*3。そして,そのような慣習が,いつごろから,どのようにして形成されたか,必ずしも定かでないともいわれる*4。そこで,以下では,法令番号の由来について,整理検討してみることにしたい*5

第2 布告,達の時代

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法令番号の嚆矢は,明治5年1月8日正院達*6が定めた「干支第何号」方式であり,同日付で「壬申第一号」の布告が発せられた*7。明治5年以降,法令番号を付することになった理由は定かでないが,おそらく事務処理の便宜のためであろう*8。これに先立つ明治4年10月5日兵部省達「公文書類ニ十干番号ヲ記載セシム」は,「十干第何号」という文書番号を付けることを定めており,このようなナンバリングは,自然な発想であったと考えられる。

続いて,明治5年11月9日太政官第337号布告により,新たに太陽暦が採用されると,公私の文書一般について,旧暦に基づく「干支」は用いないこととされた*9。そのため,法令番号についても,「干支第何号」方式に代わって,「元号」を用いる「元号某年第何号」方式が使われるようになった*10

そして,明治6年7月18日太政官第254号布告,同年8月28日太政官達により,それまで曖昧であった「布告」,「布達」,「達」の区別が明確になると,同月28日太政官第432号達*11が発せられ,「某年第何号布告」,「某年第何号達」など,法令の種類を区別し,各別の通し番号を振ることになった*12。また,諸省の布達,達の中には,「某省甲第何号達」,「某省乙第何号達」など,さらに細分されるものもあった*13

以上の経過を経て,法令番号の基本的要素が揃った。しかし,その具体的な記載の仕方が,直ちに一定したわけではない。当時の法文をみると,「太政官第六十八号ノ御布告」*14,「明治六年当省第三十七号布達」*15,「明治七年第百二十三号国内回漕規則」*16,「太政官明治七年十一月第百二十二号布告」*17,「明治七年内務省第七十壹号達」*18など,様々なパターンがあった。

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そこで整理するに,まず,明治5年1月8日正院達以前の法令について,法令番号を欠くのが本来の姿であることは疑いない*19。後代の法令や学術書の中には,同達以前の法令にも,法令番号のようなものを付けて引用するものがあるが*20,それらの多くは,『法令全書』が索引の便のため「仮に定めた符号」*21を法令番号と誤ったものであると考えられる*22。『法令全書』は,権威ある公の資料であるが,明治初期に関しては,当時の法令を全て網羅したものではないから*23,それらの番号は,あくまで「法令全書が仮に定めた符号」としてのみ意味を有することに注意が必要である。

次に,太陽暦採用以前,すなわち明治5年中の法令の法令番号については,「干支第何号」式,すなわち「壬申第何号」式の書式により引用するのが沿革に忠実であるというべきである*24。しかし,この点を意識した議論はみかけない*25

これに対し,太陽暦採用以後,元号を用いることに疑いはない。もっとも,「明治某年第何号布告」,「明治某年某月第何号布告」,「明治某年某月某日第何号布告」のいずれを用いるのかという問題がある*26。特定のためには,「明治某年第何号」とすれば十分のはずであるが,当時の法文には,「明治某年某月第何号」式による引用例が多い*27。明治9年3月14日太政官第28号達は,別冊等の形で制定された法令について,その表紙に「何年何月第何号」などと記載すべきことを定めており*28,むしろ「明治某年某月第何号」式の書式が原則であったのではないかとも考えられる。

また,明治6年5月4日太政官史官達により,「布告」の発令機関が太政官に限られることが明確になったことからすれば,同日以後の布告番号については,「太政官第何号布告」ではなく,単に「第何号布告」とするのが本来のように思われる*29。「国会法律第1号」,「内閣政令第1号」などといわないのと同断であるが*30,実際には,分かりやすさを重視するのか,法文中にも,「太政官」を冠して引用する例は多い*31

最も重要なのは,若干の例外はあるものの*32,布告番号,達番号の基本パターンは,「第何号布告」,「第何号達」であって,「布告第何号」,「達第何号」ではないということである*33。現在では,「法律第何号」,「政令第何号」式の書式に倣ってか,「布告第何号」,「達第何号」として引用する例が多いようであるが*34,布告番号,達番号の沿革に照らせば,不適当というべきであろう*35

ただし,諸省の達番号の中には,時期にもよるが,「乙第何号」(内務省)というのと同じ意味で,「達第何号」(司法省),「達書第何号」(教部省*36というものがある。したがって,これらの達について,「第何号達」と記載しては,逆に誤りとなることもあろう。司法省達の場合,明治9年司法省「達第1号」達とは別に,明治9年司法省「第1号」達があるのである。

なお,以上の検討は,「当時の書式」を重視するものである。法令番号が,結局のところナンバリングにすぎないとすれば,漢数字にせよ,アラビア数字にせよ,縦書きにせよ,横書きにせよ,現在の正書法,公用文の書き方等に従って書けばよいということもできる。この考え方によれば,「平成十九年法律第一号」という「現在の書式」に従って,「明治十八年第一号布告」を「明治十八年布告第一号」と書き直したとしても,間違いとはいえない。

第3 公文式公式令の時代

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明治19年2月26日勅令第1号公文式*37,「布告」,「布達」,「達」に代わって,「法律」,「勅令」,「閣令」,「省令」等の法形式を用いることを定めた。公文式は,法令番号について何も定めなかったが,公文式自身が,御署名原本において,自らを「勅令第1号」と称しており,爾後,「法律第何号」,「勅令第何号」式の法令番号を用いることを暗黙の前提としていたことが窺われる。

また,当時の政府が公文書の原本等を編綴した『公文類聚』には,明治19年2月24日付「公文式被定ノ件」と題する記事*38の後に,同日付「勅令及び閣令省令ノ書式」と題する記事*39が綴られており,同書式は,「勅令第1号」,「閣令第1号」,「海軍省令第1号」式の法令番号を定める*40。同記事自体は,公式令制定当時に記載されたものではないと思われるが*41,いずれにせよ,公文式制定に伴い,「法律第何号」,「勅令第何号」式の法令番号を用いることが,政府部内の了解事項となったことは確かであろう*42

公文式は,明治40年2月1日勅令第6号公式令によって改められるが,公式令も,法令番号について何も定めなかった。立法資料に遡って調べてみると,帝室制度調査局案の段階では,従前の「慣例」を立法化したものとして,法令には,公布順に毎年更新する番号を付すべきことが規定されていたのであるが(草案第14条)*43,枢密院御下附案*44の段階までに,当該条項が削除されたしまったことが分かる*45。いかなる経緯で立法化が見送られたのか定かでないが,帝室制度調査局のいう従前の「慣例」は,公式令制定後も維持されることになる。

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明治45年7月30日,元号が大正に改元された。これを受け,大正元年7月30日内閣書記官長通牒は,「念のため」として,各省次官等に対し,改元に伴い,法令番号を更新すべきことを通牒した*46。すなわち,明治45年(1912年)法律第1号とは別に,大正元年(1912年)法律第1号が存するという方式が,ここで確認されたのである。この方式は,昭和改元の際も,昭和元年12月25日内閣書記官長通牒により,重ねて確認される*47

諸書の中には,法律番号について,「(西暦)何年法律第何号」などと記載するものがあるが,以上の点からすれば,不適当というべきである。「1912年法律第1号」では,法律を一意に特定することができないからである。

第4 日本国憲法の時代

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日本国憲法の施行に伴い,公式令は廃止されたが,諸般の事情により,これに代わる法律を制定することができず*48,その後の法令公布手続は,昭和22年5月1日事務次官会議了解*49に基づくことになった*50。法令番号については,同了解でも言及されなかったが,従前どおりの取扱がなされたようである。

ただし,「法令番号に付される日付」に,密かな相違が生じた。法令番号は,暦年で特定すれば十分であるから,法令中では,例外はあるものの*51,「某年法律第何号」として引用するのが通常である。しかし,一般の文章では,検索の便宜のためか,「某年某月某日法律第何号」などと,日付を付することが多い。これが,「法令番号に付される日付」である。

日本国憲法の施行前,「法令番号に付される日付」には,多くの場合,当該法令の公布文等に記載される日付(典型的には,天皇の裁可日である。)と当該法令を登載する官報の発行日付との2種類があり,疑義を生じる場合があった。この点について,日本国憲法の施行を契機に,公布文等の記載日付と官報の発行日付とを一致させることになり,疑義が解消されたのである*52

もっとも,昭和26年4月以前の『法令全書』の「まえがき」には,「制定の日附と公布の日附の違うものがあつたときは」と記載されており,公布文等の記載日付と官報の発行日付が一致しない場合も想定されていたようである*53

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ところで,この「法令番号に付される日付」,すなわち官報の発行日付について,「公布日」という言い方をする場合がある。しかし,この言い方は正確でない。確かに,法令は,官報によって公布されるものであるが,官報は,必ずしも日付どおり発行されるものではなく*54判例によれば,公布がされたというには,少なくも官報の発送手続が完了していなければならない(最高裁判所昭和32年12月28日判決刑集11巻14号3461頁*55)。

したがって,「法令番号に付される日付」は,あくまでも官報の発行日付,或いは公布文等に付された日付と呼ぶべきである。

第5 総括

  1. 法令番号の根拠は,布告番号,達番号などを定めた明治5年1月8日正院達*56,明治6年7月28日太政官第432号達*57まで遡る。しかし,法律番号,政令番号に限ると,根拠といえるような直接的な定めがなく,慣習に依るといわざるを得ない*58。各省の布達,省令などについては,各省独自の規定があった場合もある*59
  2. 法令番号の書式は,必ずしも一定しないが,明治5年中の布告番号の場合,「壬申第何号ノ布告」*60などとし,明治6年以降の布告番号等の場合,「明治何年何月第何号布告」*61(ただし,明治6年5月4日までは,「明治何年何月太政官第何号布告」とすべきか*62。)などとし,明治19年以降の法律番号等の場合,「明治何年法律第何号」などとするのが沿革に忠実である。西暦のみを付する書式は,明治45年(1912年)法律第1号とは別に,大正元年(1912年)法律第1号が存する以上,適当ではない*63
  3. 法令番号に年月日を付す場合,日本国憲法施行前の法令については,裁可等の日付と官報の発行日付との2種類の年月日があることに注意が必要である。日本国憲法施行後は,両者を一致させる取扱がなされているので,この点を意識する必要はないが*64,この日付を「公布の日」と呼ぶのは正確ではない。官報は,必ずしも日付どおりに発行されるものではなく*65判例によれば,公布がされたというには,少なくも官報の発送手続が完了していなければならないからである*66

(了)

*1:前田正道『ワークブック法制執務』〔全訂〕・22頁 。

*2:例えば,平成13年国土交通省訓令第2号国土交通省文書管理規則の場合,18条が,「起案番号」として文書番号の付け方を定め,7条・様式2から様式4が,省令番号,訓令番号,告示番号を付することを前提とする(国土交通省機構関係法令集〔平成17年版〕・702頁)。また,昭和42年東京都訓令甲第10号東京都公文規程の場合,5条,別記1から別記11が,これらの番号を付することを定める(東京都令規集・6938頁)。

*3:田島信威『法令の仕組みと作り方』(立法技術入門講座・第2巻)・83頁。

*4:岩谷十郎「<解説>明治太政官期法令の世界」(調査資料2006−1)・9頁。

*5:なお,先行研究としては,脚注で引用する諸書の外,明治23年という早い段階において,主に省令以下のレベルについて,内閣記録局が,内務省,司法省,警視庁,大蔵省,内務省海軍省,外務省,陸軍省東京府逓信省農商務省,文部省,宮内省に照会したものがある(国立公文書館所蔵・内閣記録局『往復簿』明治23年・二,同三。)。

*6:明治5年1月8日正院達「自今布告ノ順次ヲ以テ本文ノ肩ニ番号ヲ朱書シ差出シ候間各省ヨリ布告致シ候節モ同様取計可有之候且後日取消シ或ハ照準等ノ儀相達候節モ干支第何号ノ布告云々ト相認可申此段相達候也」。

*7:なお,『太政官日誌』上は,第1号布告の方が,前記明治5年1月8日正院達よりも前に配置されている。

*8:直接の根拠はないが,県の進達,進牒に番号を付することについて,「整頓」,「調査」の必要性を理由として挙げたものがある(国立公文書館所蔵『太政類典』第2編第41巻・第46番,47番,48番,同『公文録』明治8年自3月至4月・諸県之部・第23番,同明治9年1月・府県之部・第17番,同明治10年自1月至2月・府県之部・第9番)。

*9:明治6年5月29日太政官達(国立公文書館所蔵『太政類典』第2編第2巻・第49番,同『公文録』明治6年5月・各課之部・第40番),明治6年6月10日大蔵省問合,同月12日史官回答,同年12月15日宮城県伺,同月17日外史議案,同月20日回答(国立公文書館所蔵『太政類典』第2編第41巻・第76番,同『公文録』明治6年6月・大蔵省之部・二・第18番,同明治6年12月・諸県之部・二・第2番)。なお,明治6年1月の正院と左院の議論も興味深い(国立公文書館所蔵『太政類典』第2編第41巻・第75番,同『公文録』明治6年起1月止4月・左院之部・第1番)。

*10:『法令全書』の明治5年1月8日正院達の頭注,山室信一「法令全書と法規分類大全」(日本近代思想大系・別巻)・35頁の注4。

*11:明治6年12月28日太政官第432号達「来明治七年一月ヨリ達書布告ヲ区別シ各自ニ番号ヲ付シ候条此旨相達候事」。なお,同達は明治6年12月27日太政官外史伺(国立公文書館所蔵『太政類典』第2編第40巻・第6番,『公文録』明治6年12月・課伺・第12番)の提案に基づくものである。

*12:岩谷十郎「<解説>明治太政官期法令の世界」(調査資料2006−1)・26頁。

*13:その法的根拠として,例えば,明治7年1月15日内務省乙第4号達,明治7年10月2日大蔵省乙第1号達がある(山室信一「法令全書と法規分類大全」(日本近代思想大系・別巻)・34頁)。

*14:明治6年3月7日司法省第28号。

*15:明治7年3月18日文部省第10号達。

*16:明治8年2月17日内務省乙第20号達。

*17:明治8年3月20日内務省乙第16号達。

*18:明治8年6月29日地租改正事務局乙第4号達。

*19:逆に,明治5年以後の法令であっても,法令番号を欠くものが多数あり,特に,陸軍省達は,明治6年7月19日まで,法令番号を用いなかった(『法令全書』明治5年「編纂例」,明治6年「編纂例」)。

*20:井上政文「法令引用に当たっての留意すべき事項」(北の丸・9号)・26頁,堀内節「布告・達の謬った番号標記について」(法学新報・91巻)・31頁。

*21:『法令全書』慶應3年の「編纂例」,井上政文「法令引用に当たっての留意すべき事項」(北の丸・9号)・26頁,堀内節「布告・達の謬った番号標記について」(法学新報・91巻)・33頁,山室信一「法令全書と法規分類大全」(日本近代思想大系・別巻)・33頁。

*22:井上政文「法令引用に当たっての留意すべき事項」(北の丸・9号)・26頁,堀内節「布告・達の謬った番号標記について」(法学新報・91巻)・32頁。

*23:岩谷十郎「<解説>明治太政官期法令の世界」(調査資料2006−1)・14頁。

*24:例えば,「壬申二月十五日第五十号布告」(明治6年太政官第51号布告),「昨壬申九月十四日乙第百十七号」(明治6年海軍省甲第48号達)のように引用する。

*25:堀内節「布告・達の謬った番号標記について」(法学新報・91巻)・31頁も,この点には注意を払っていない。

*26:明治5年中の法令については,明治5年1月8日正院達の法文に忠実に解釈すると,「干支第何号」のみで足り,月日は付さないことになろう。ただし,必ずしも実例に一致しない。

*27:例えば,「太政官明治七年十一月第百二十二号布告」(明治8年3月20日内務省乙第16号達)。そして,「明治五年九月大蔵省達第百二十六号」(明治8年5月8日内務省甲第8号達),「明治九年十二月第百十七号達」(明治32年7月29日逓信省令第35号),「明治十六年七月第二十三号布告」(明治33年3月16日法律第65号)がある。

*28:明治9年3月14日太政官第28号達「布告布達ノ内規則條例等別ニ冊子表図ヲナシタルモノハ其表紙又ハ紙端ニ何年何月第何號(布告)(達)(布達)(制定)(改正)何々ト標記可致」。

*29:井上政文「法令引用に当たっての留意すべき事項」(北の丸・9号)・27頁。なお,同書は,「七年以後の布告」についてのこととしているが,明治6年5月4日太政官史官達以後の布告についてのこととすべきように思う。実際,「明治六年八月第三百四号布告」(明治10年2月21日大蔵省甲第6号達)と引用した例もある。

*30:もっとも,例えば明治19年法律第1号「登記法」は,帝国議会が制定した「法律」ではない。

*31:例えば,「太政官明治七年第九十三号布告」(明治8年3月23日大蔵省乙第39号達),「太政官明治七年十一月第百二十二号布告」(前記明治8年3月20日内務省乙第16号達)がある。

*32:例えば,「明治五年九月大蔵省達第百二十六号」(明治8年5月8日内務省甲第8号達),「太政官御達第五十九号」(明治9年7月4日内務省乙第83号達)がある。

*33:井上政文「法令引用に当たっての留意すべき事項」(北の丸・9号)・27頁。実際,前記明治5年1月8日正院達も,「干支第何号ノ布告云々」としていたのであり,前記明治9年3月14日太政官第28号達も,「布告布達ノ内規則條例等別ニ冊子表図ヲナシタルモノハ其表紙又ハ紙端ニ何年何月第何號(布告)(達)(布達)(制定)(改正)何々ト標記可致」としている。

*34:早い例として,通貨及証券模造取締法(明治28年4月5日法律第28号)が,「第一条ニ褐ケタル物件ニハ明治九年布告第五十七号ヲ適用ス」(4条)とする。

*35:堀内節「布告・達の謬った番号標記について」(法学新報・91巻)・35頁。

*36:なお,この方式は,明治9年12月27日教部省達により,明治10年から廃止される予定であったが,明治10年1月11日第4号布告により,教部省自体が廃止されてしまった。

*37:後述のように,日本国憲法施行前の法令は,裁可等の日付と登載官報の日付が異なり,公文式の場合,裁可の日付が2月24日,官報の日付が2月26日である。以下では,原則として,後者の日付により引用することにする。

*38:国立公文書館所蔵『公文類聚』第10編第1巻第11番。

*39:国立公文書館所蔵『公文類聚』第10編第1巻第12番。

*40:法律番号については,「公文式被定ノ件」と「勅令及び閣令省令ノ書式」との間に,「法律第1号」式の書式を記載した紙面がある(コマ番号:0664)。ただし,同紙面について,『公文類聚』の目録に記載はない。「公文式被定ノ件」と「勅令及び閣令省令ノ書式」との間には,2月26日付「各省大臣ハ其職権若クハ特別ノ委任ニ依リ法律勅令ヲ施行シ又ハ省令ヲ発スルコトヲ得」と題する記事も挟まれており,『公文類聚』自体に誤綴があるのではないかと思われる。

*41:公文式被定ノ件」は,内閣の用箋を用いた記事であるが,「勅令及び閣令省令ノ書式」は,「公文類聚」と記載された用箋を用いた記事である。また,同記事が引用する「閣令第1号」,「海軍省令第1号」は,それぞれ明治19年2月27日,同年3月2日付であり,同記事の日付である明治19年2月24日より後である。「勅令及び閣令省令ノ書式」という記事は,『公文類聚』編纂時に追加されたものではないかと疑われる。

*42:なお,参謀本部条例を改正した明治19年3月18日(裁可日),明治21年2月14日(裁可日)の勅令には,勅令番号が付されていない。

*43:国立公文書館所蔵「帝室制度調査局案の公式令公式令の解註)」(請求番号:本館-2A-040-00・資00113100,件名番号:007)。

*44:国立公文書館所蔵『枢密院御下附案』明治39年巻下第115番。

*45:国立公文書館所蔵「公式令草案(帝室制度調査局総裁上奏)」(請求番号:本館-2A-040-00・資00113100,件名番号:010)。

*46:国立公文書館所蔵『公文類聚』第36編第1巻上第4番。

*47:国立公文書館所蔵『公文類聚』第51編第1巻第5番。なお,これを受けたものとして,昭和元年12月25日内務省発書第1号が確認される(国立公文書館所蔵・内務省社会局『例規』第1冊第15番)。

*48:公式令に代わる法律が制定されなかった事情としては,佐藤達夫天皇制のミスユース」(時の法令・279号)・14頁以下に詳しい。

*49:昭和22年5月14日農林省文第29号「公式令廃止後の公文の方式等に関する件」(国立公文書館所蔵,請求番号:本館-3B -020-01・昭50農水00005100,件名番号:014)に引用されている。

*50:井上政文「官報登載の「法令のあらまし」について」(官報百年のあゆみ)・184頁。

*51:「某年某月某日」とするものとして,平成16年3月24日総務省令第47号1条4号,平成18年5月1日農林水産省令第46号107条2項1号ロがある。また,布告,達の場合,「某年某月」とするのが原則であるとも考えられるのは前述のとおりであり,環境庁環境省の告示(平成17年環境省告示第45号,平成19年環境省告示第42号),一部の地方自治体の条例(上田章『条例規則の読み方・つくり方』・15頁)も,「某年某月」形式を採用する。

*52:山室信一「法令全書と法規分類大全」(日本近代思想大系・別巻)・34頁,井上政文「官報登載の「法令のあらまし」について」(官報百年のあゆみ)・184頁。

*53:実際,俵静夫「公式令廃止後の法令公布の方式」(民商法雑誌・40巻2号)・179頁には,「法令に掲げる公布の日附と官報の日附とが異なるときは,官報の日附の日が公布の日とされる」とあり,これが日本国憲法施行後のことをいうものであるとすると,日本国憲法施行後も,公布文等の記載日付と官報の発行日付とが一致しない場合があったことになる。

*54:林修三「法令の公布と施行の時期」(自治研究・35巻1号)・6頁。なお,昭和23年7月31日政令第201号を掲載した官報は,同年8月2日発送であり(最高裁判所昭和32年12月28日判決刑集11巻14号3461頁),昭和23年3月31日法律第16号を掲載した官報は,同年4月9日発送であり(東京高等裁判所昭和26年1月11日判決裁判所時報75号8頁),昭和23年7月6日法律第101号を掲載した官報は,同年7月21日発送である(東京高等裁判所昭和25年6月22日判決裁判所時報62号4頁)。

*55:なお,その後の最高裁判所昭和33年10月15日判決刑集12巻14号3313頁は,公布の時とは,「おそくとも」,「一般希望者がいずれかの官報販売所または印刷局官報課において、閲覧しまたは購読しようとすれば、それをなし得た最初の時点」であるとしてる。これら判例の射程については,もう少し論ずべきことがあるが,本論と離れるので措くことにする。

*56:明治5年1月8日正院達「自今布告ノ順次ヲ以テ本文ノ肩ニ番号ヲ朱書シ差出シ候間各省ヨリ布告致シ候節モ同様取計可有之候且後日取消シ或ハ照準等ノ儀相達候節モ干支第何号ノ布告云々ト相認可申此段相達候也」。

*57:明治6年12月28日太政官第432号達「来明治七年一月ヨリ達書布告ヲ区別シ各自ニ番号ヲ付シ候条此旨相達候事」。

*58:帝室制度調査局の公式令草案14条に対する注釈(国立公文書館所蔵「帝室制度調査局案の公式令公式令の解註)」,請求番号:本館-2A-040-00・資00113100,件名番号:007)。

*59:明治7年1月15日内務省乙第4号達,明治7年10月2日大蔵省乙第1号達,平成13年国土交通省訓令第2号国土交通省文書管理規則7条・様式2から様式4など。

*60:必ずしも実例に一致しないが,明治5年1月8日正院達の法文に忠実に解釈するとこのようになる。

*61:前述の通り,明治9年3月14日太政官第28号達が,「布告布達ノ内規則條例等別ニ冊子表図ヲナシタルモノハ其表紙又ハ紙端ニ何年何月第何號(布告)(達)(布達)(制定)(改正)何々ト標記可致」するのが参考となる。

*62:井上政文「法令引用に当たっての留意すべき事項」(北の丸・9号)・27頁。

*63:大正元年7月30日内閣書記官長通牒(国立公文書館所蔵『公文類聚』第36編第1巻上第4番),昭和元年12月25日内閣書記官長通牒(国立公文書館所蔵『公文類聚』第51編第1巻第5番)。

*64:山室信一「法令全書と法規分類大全」(日本近代思想大系・別巻)・34頁,井上政文「官報登載の「法令のあらまし」について」(官報百年のあゆみ)・184頁。

*65:林修三「法令の公布と施行の時期」(自治研究・35巻1号)・6頁。

*66:最高裁判所昭和32年12月28日判決刑集11巻14号3461頁,最高裁判所昭和33年10月15日判決刑集12巻14号3313頁。

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