原田信男『神と肉』における古字書の理解

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新書730神と肉 (平凡社新書)原田信男『神と肉』(平凡社新書,2014年)は,神社祭祀といえば稲作儀礼を中心に考えがちな現代の観念に対し,我が国においても古くは動物の肉を供える祭祀が広く行われてきたことを論じるものであり,その傍証・痕跡として,動物を解体する「屠る(ほふる)」という語が,神を祭る「祝る(はふる)」という語に由来するという説を論証する。確かに,両者が同根であることは喜田貞吉に遡る由緒ある見解であり,結論に積極的に反対する理由もない。

しかし,本書は,その論理の進め方に飛躍があるばかりか,そもそも論拠となる資料を誤読するものである。何より,古字書の読み方,特に「反切」や「韻字」などの基本的な理解もないように思われる。それにもかかわらず,本書の議論に対しては,「用語面からの体系的な検討・整理を行った上で…著者ならではの慎重かつ周到な結論が導き出され重要である」(前城直子)などとする好評価もみられるので*1,ここで鬼の首を取ったようにメモしておくことにする。

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「屠」と「祝」の関係は,本書の第3章第4節で論じられており,最初に「屠」の本義が確認される。すなわち,同書は,①「屠」には,「刳る」,「壊す」,「割く」という古義があり(新撰字鏡・天治本*2),②「剔(えぐる)」にも,「ほふる」という古訓があることを指摘した上(同書*3),古字書において,③「剔(ほふる)」という字は,「鮮骨」「鮮なり」などと説明されるが(同書*4),④そこでいう「鮮(あざやか)」とは,「牲(いけにへ)」という字の語義に用いられる言葉であるとして(類聚名義抄・観智院本*5),「生贄には新鮮さが求められており,そのための行為こそが,まさに屠であったといえよう。」と結論付ける(122頁〜123頁*6)。

図版1:剔(新撰字鏡・天治本)*7

実は,ここまで本書を読めば,著者の古字書の読み方に対する理解に疑問が生じるのであるが(後述),それは直ちに論旨に影響するものではない。しかし,その疑問を契機に原典を調べると,前記③に根本的な誤解があることに気付いた。本書が「鮮骨」「鮮なり」とする部分は,正しくは「解骨」「(なほ)解のごとし」である。確かに,『新撰字鏡』天治本は,「解」ではなく,異体字の「觧」*8という字を用いており,早合点してしまいそうなのではあるが,落ち着いて見れば,魚篇ではなく,角篇の「觧」である(左図版参照)。そして,「解骨」とは,例えば,『玉篇』に「剔,解骨也」*9とあるとおり,「剔」の字解に典型的に用いられる語句である。そうすると,「屠る」は「剔」であり,「剔」が「鮮骨」であることから,「屠る」とは,「鮮(あざやか)」な生贄を解体することを意味するという前記の議論は決定的に論拠を欠いていたことになる。

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したがって,本来,その後の議論を追うまでもないのであるが,その根拠はともかく,「屠(ほふる)」という言葉が,「動物を生贄として殺す行為」を本義とするという結論自体はありそうなことではある。そこで,次に進んで,「屠(ほふる)」と「祝る(はふる)」との関係という問題もみることにする。

同書は,この問題について,⑤「波布理(はふり)」を「殺す」の意味で用いた事例(古事記崇神天皇*10)があることの外,⑥「殺す」に関連してか,死者を埋葬する行為である「殯」にも,「はふる」という古訓があるという関連事実を指摘するのみで(類聚名義抄・観智院本*11),「祝るは,「ハフル」「ホフル」と訓んで,屠るに通じて殺すの義を有するとともに,中世には動物を解体する行為を意味していたことが知られる。」と断じる(122頁〜123頁*12)。しかし,前記⑤が,「波布理(はふり)」≒「殺す」の根拠になるにしても,その「波布理(はふり)」≒「祝(はふる)」なのか,そこでいう「殺す」≒「屠る」なのか,その連続性は何ら担保されていない。

同書は,このような論理の飛躍を埋めるためか,以下のとおり,⑦『字鏡集』(寛元本七巻本)の注記を根拠とする補足をする。しかし,その補足の仕方は,本書の議論に対する疑念を深めるばかりである。

そして『字鏡集』狩谷棭斎自筆校正本(国会本)には,「祝 宥文爰反、シウ、シク之六切 シルシ、クハフ、イノル、シク、マサル、ハフリ、ハフル、ヲクル、イハフ、イタル」とあり、これに「断也、予也、寿也、織也」という注記が加えられている。つまり「祝」=「イハフ」は、祈るであると同時に、断=屠の意味を有して、寿ぎ事や葬送など、さまざまな祭儀に関係していたことが想像される。まさに屠と祝とは同義だったのである。

(124頁,振仮名略)

単純に考えても,「断=屠」というのは強弁のように感じるが,それ以上に問題なのは,「断也」という注記のみを根拠に,「祝(いはふ)」という大和言葉を「断」という漢字に結び付けてしまっているところである。「断也」「予也」という注記の仕方は,中国の文献において,漢字の意味を別の漢字で置き換えて説明する場合に使うものだからである。実際,前記『字鏡集』の引用する「断也」という注記も,「祝髪文身」(穀梁伝・哀公十三年)や「子路死。子曰。噫。天祝予。」(公羊伝・哀公十四年)など古い中国の用例に対し,「祝,断也」と注記する中国の注疏*13の類を典拠にしたものにすぎないと考えられる。

このような中国語の「祝」の概念の解釈を日本語の「祝る(はふる)」の意義の理解のため無前提に援用してしまうのは危険である*14。これを恣意的に行えば,例えば,『毛詩正義』の字釈に基づき,「祝」は,類義語の「詛」と異なり,「牲(いけにへ)」を用いない場合に使う言葉(「無用牲之文」)であるという逆の結論も容易に導き得てしまう*15。さらに言えば,この「断也」という注記は,他本にはみえず,後代の増補である可能性もあるから,この点の検討もしなければ,「はふる」の原義を辿る方法としては不十分であろう*16

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図版2:祝(字鏡集・寛元本七巻本)*17

ところで、このような粗い論証の背景には,そもそも古字書を読む上での前提知識の問題があるように思われる。例えば,先に引用した「祝 宥文爰反、シウ、シク之六切」という『字鏡集』の翻刻は不可解である。というのも,「宥」は,親字「祝」の韻字として,「文爰反」は,「シウ」という音の反切として,「之六切」は,「シク」という音の反切として記載されていると考えられるから,意味の通るように翻刻するのであれば,「祝 宥、シウ、文爰反、シク、之六切」となるべきところであり,仮に,原典(右図版)の当該部分の記載を2行にみるとしても*18,正しく理解していれば,読点の振り方は,例えば,「祝 宥、文爰反、シウ、シク、之六切」となったはずであるからである。

また,反切を理解していれば,「文爰反」と翻刻するに当たり,何らかの注記をするのが自然である。反切とは,「○○反」又は「○○切」の形で2字の漢字を並べ,1字目の前半の音(声母)と2字目の後半の音(韻母)を組み合わせ,別の漢字の音を表現する方法であるが*19,「之六切」であれば,日本語(漢音)で考えても,「シ(之)+リク(六)→シク(祝)」となるので違和感がない。しかし,「文爰反」が「シウ」となるというのは,いかにも不審である*20。他例を参照すれば,これは「之受反」や「之授反」の誤記,誤写の類である可能性が高い*21。「之受切」であれば,同様に漢音で,「シ(之)+シウ(受)→シウ(祝)」となる。本書は,その辺も何ら意識していないように思われる。

これらだけならば,翻刻の方針の問題とも考えられなくもない。しかし,本書が,別の部分で,『新撰字鏡』*22を引用し,「牛部には『牲 所□反、平、犠牲』とあり、牲の音は平に近く犠牲を意味するとしている。」(110頁)などと解説することからすると,その無理解は明らかである。言うまでもなく,「平」は平声を意味する符号であり,「牲の音」を示すのは「所□*23反」とする箇所である。同様に,前記③に関し,『新撰字鏡』天治本の「天帝反去猶觧」(前掲図版1参照)を「天帝反、去りて猶鮮なり」と訓読する部分もあるが(123頁),当然ながら,「去」は去声を意味する符号である。

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これ以上は繁にわたるので避けるが,本書の第3章第4節には首をかしげる部分が多い。「屠る(はふる・ほふる)」の原義が,「放る(はふる・ほうる)」であり,これが「祝り(はふり)」にも通じること自体は,『日本国語大辞典』も採用する見解であるが*24,本書は,それを動物の生贄供儀と絡めて説明しようとして,目に付いた資料を十分に理解することなく採用し*25,それを雑然と並べている印象があり*26,面白いテーマであるだけに残念なところである。
(以上)

*1:正確には,本書の前著である『なぜ生命は捧げられるか』(御茶の水書房,2012年)・第4章第3節に対する評価であるが(前城直子「書評 原田信男著『なぜ生命は捧げられるか』 動物供犠の全容が立体的・体系的に見えてくる」,21世紀アジア学研究11号157頁,2013年3月),そこでの議論は,ここで問題とする本書の第3章第4節の議論と大略同様である。なお,本記事の公開後,本書の別の部分について,「なへてならぬ」という語句の理解が,高校生向けの古語辞典にも載っている一般的な理解に反するとして疑問を呈する記事に接した。

*2:巻三・尸部第卅二「屠 侍奴反,平,刳也,壊也,割也,獦師也,屠児也」(十六ウ,京都帝国大学文学部国語学国文学研究室編『新撰字鏡』古典索引叢刊3・182頁)。ただし,本書では「猟師」と引用されている。

*3:巻十一・刂部第百廿八「剔 吐厤反、入、觧骨也、又天帝反、去、猶觧也、剪髪也、保夫留」(十七オ・ウ,前掲古典索引叢刊3・669頁〜670頁)。

*4:本書は,『新撰字鏡』天治本の該当箇所(前注参照)を「剔 吐歴反、鮮骨なり、また天帝反、去りて猶鮮なり、剪髪なり、保夫留」と訓読し,本文のとおり解釈する。しかし,後述のとおり,これは誤りである。

*5:仏下末・牛部第卅一「犠 戯宜反,イケニヘ。牲 イケニヘ,アサヤカナリ。」(国立国会図書館・本別11−6,第5冊)。

*6:なお,前掲前著・98頁は,これらの外,『色葉字類抄』や『節用集』が,「屠」について,「肉鳥を切るなり」と字釈していることを指摘する。

*7:ただし,前掲古典索引叢刊3・669頁〜670頁のうち,該当箇所をトリミングして結合した。

*8:同書・角部「解」参照

*9:刀部二百六十六「剔 外狄切,解骨也,㓤也」(大広益会玉篇30巻,京都大学附属図書館・04−86・タ・01貴,第四冊,巻17・4ウ)

*10:確かに,建波爾安王の反乱の鎮圧に当たり,「其の軍士を斬りはふりしき(斬波布理其軍士)」(日本古典文学全集1,192頁)という表現がある。しかし,ここでの「斬りはふる」は,「斬ってばらばらにする」,或いは,「斬り捨てる」の義と理解されるから(同頁・頭注2参照),「殺す」に直結するものではなく,むしろ,原義「放る(はふる)」と連続するというべきように思う。なお,『日本書紀』雄略九年三月にも,「即ち新羅に入りて,傍らの郡を行屠る(即入新羅行屠傍)」(日本古典文学全集3・180頁,181頁)という表現があるが,『漢書』に典拠がある漢文表現のようであり(181頁・頭注13),日本語の理解として当然には援用することができない。

*11:法下・歹部(七十六)「𣩵〓〓 谷今正,必尹反,ハフル」(前掲本,第8冊)。ただし,「〓〓」の部分は,親字の異体字2字であり,2字目は,1字目の旁を「宀」「屓」を並べた形(賔󠄁)とした字,3字目は,2字目の偏を「歺」とし,旁は「尸」の「口」を「正」とした字である。

*12:なお,前掲前著・98頁は,これらに加え,『日本書紀雄略天皇九年五月が,「視葬者」を「はぶりのつかさ」と訓んでいることを指摘するが,いずれにせよ関連事実にすぎない。

*13:春秋穀梁伝注疏・巻二十八(武英殿十三經注疏・第12冊・14オ),春秋穀梁伝注疏・巻二十(武英殿十三經注疏・第8冊・18ウ)。

*14:この点に関連し,(本書は,別の部分(本書・111頁,前掲前著・83頁で,『詩学大成抄』の「牲」「イケニヘ」の語釈が,「生贄」の語義の解説として適切であると評価しているが,本書も指摘するとおり,『詩学大成抄』は,「中国知識を解説する」という性格を有するものであって,そこに描写される供儀は,中国の儀式を説明したものであろう。そもそも,和語「いけにへ」は,漢語「犠牲」の訓読のために造語されたものであるとも指摘されており(吉田比呂子「宗教的・儀礼的性格を持つ解釈用語の問題点」,国語語彙史の研究19,157頁,157頁〜160頁),中世における『詩学大成抄』の「犠牲」「イケニヘ」の解説も,漢籍に関わるものとされている(同・166頁)。

*15:『毛詩正義』巻十八は,『蕩之什』「蕩」の「侯作侯祝」という句について,「祝,詛也」という語釈を前提に,「詛者,盟之細事,用豕犬雞三物告神而要之。祝無用牲之文,蓋口告而祝詛之也。」(李學勤主編『毛詩正義《大雅》』・1360頁)とする。なお,武英殿十三經注疏本は,「祝無牲之文」とするが誤りであろう。

*16:二十巻本系統では,温古堂本(国立国会図書館・せ−29,第4冊・78コマ),白河本(『字鏡集白河本寛元本研究並びに総合索引』第1冊・483頁)を確認し,永正本七巻本(三巻本)系統では,尊経閣文庫本字鏡抄(下本,古辞書叢刊6−6,21ウ),龍谷大学本倭玉篇(「倭玉篇」という外題にかかわらず実は「字鏡集」である。該当箇所は第6冊・46コマであり,同大仏教文化研究所篇『字鏡集』下・223頁が対応する。)を確認したが,いずれも「断也,予也,寿也,織也」という記載はない。

*17:国立国会図書館・寄別13−55,第6冊・54コマ。なお,本書が典拠(本書244頁)とする古辞書叢刊刊行会の複製本(古辞書叢刊25−6)も念のため確認したが,当然ながら,国立国会図書館の前記原本と同一であった。

*18:確かに,当該部分の記載は,「宥 文爰反」「シウ シク 之六切」の2行に読める。しかし,『字鏡集』(寛元本七巻本)において,韻字は親字の右肩が定位置であり,音の仮名は韻字の右傍に振り,その反切は仮名の下に付記するのが通常であることからすると,「シウ シク」と書いた後,「文爰反」,「之六切」を追記しようとして,「シウ シク」の間には余白がないため,その右側に「文爰反」を付し,「シク」の後には余白があったため,その下に「之六切」を追加した考えられる。

*19:例えば,「東」を「徳紅切」,「徳紅反」と表現する場合,「徳」/tok/の声母/t/と「紅」/hoŋ/の韻母/oŋ/とを組み合わせ,/toŋ/と読む。

*20:とはいえ,漢字の古韻のなかには,現代からは想像の付かないようなものもあるので,現段階では一定の留保を残しておきたい。

*21:例えば,慧琳『一切経音義』(海印寺蔵版)では,「祝」(シウ)の反切を「之授反」とした例がある(国立国会図書館・225−9,巻27第63張,巻59第29張,巻67第31張)。

*22:天治本・牛部第卅七(前掲古典索引叢刊3・270頁)。

*23:前掲古典索引叢刊3・270頁の画像は不鮮明であるが,「所庚切」(唐韻)と読めなくもない。

*24:第2版によれば,⑴「ほうる(放)」の元の語形は,「はふる(放)」であったところ(「ほうる[はふる]【放・抛・投】」の語釈冒頭注記),⑵「はふる(放)」は,「はふる(屠)」,「はぶる(葬)」などと,「離れる」,「離れさせる」という意味で共通していることから,語源が等しく(「はふる【放・抛】」の語誌欄),他方,⑶「はふり【祝】」は,動詞「はふる(放)」の連用形に由来するとする(「はふり【祝】」の語釈冒頭注記)。

*25:本文に挙げた外,本文の前記⑥について,「殯 谷今正,必尹反,ハフル」という引用の仕方がされる点を指摘し得る。「谷今正」は,親字の1字目が俗字体であり,2字目が現行の字体であり,3字目が正字体であることを意味する符号であるから,親字を1字(「殯」)しか引用しないのでは意味が通らない。本書は,当該符号の意義を理解しないまま引用しているように思われる。

*26:実際,本書の論理展開は本文の①から⑦に整理したが,推測で補った部分が少なくない。

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