元号の変わり目(3)

第3一世一元の制 − 大正と昭和

改元日説の確立

大正以降の改元が,慶応以前の改元と決定的に異なっていた点は,「一世一元の制」を前提としていたことである。これに伴ってか,改元詔書の文言も,「大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」と日単位のものに変更された。

昭和改元の場合,詔書原案は,「大正十五年ヲ改メテ昭和元年トシ十二月二十五日ヲ以テ改元ノ期ト為ス」と,日単位なのか,年単位なのか曖昧なものであったが,枢密院会議により,大正改元の例に倣う文言に修正された*1

この結果,大正,昭和改元については,改元日説が通説となった*2改元の当日は,新元号を用いるのか,旧元号を用いるのかという冒頭の問題は,このようにして改元日説が通説化したことを前提にする。

一世一元の制との関係

詔書の文言の変更を重視するのであれば,詔書に,改元日「以後」を新元号とするとある以上,午前0時説によるのが適当のように思える。高橋茂夫「明治天皇崩御は『大正元年』」*3は,この見解をとる。しかし,前章で述べたとおり,詔書の文言は,必ずしも決定的な根拠となるものではない。詔書の文言を変更した前提として,一世一元の制を採用したことがあるのではないかということが問題となる。

この点,一世一元の制を採用したことを重視するのは,美濃部達吉宮沢俊義である。彼らは,一世一元の制をとる以上,天皇の在位期間と元号の適用期間は完全に一致すべきであるから,先帝崩御,新帝即位の瞬間が元号の変わり目であるとして,新帝即位時説をとる*4。近時では,深谷博治「元号存続,いまや時代錯誤」*5が,同様の見解をとる。

これに対し,芝葛盛は,一世一元の制は,「改元は一度,一代中に再び改元をしないと云ふ事」にすぎず,上記理解は「誤解」であるとする。彼は,改元詔書が,旧元号日付で出されていることからすれば,改元の効果は,改元詔書が発布される前には生じていないはずであり,改元詔書「公布*6」時が元号の変わり目であるとして,詔書発布時説をとる*7

しかし,上記芝の所説の後半部分は,ナンセンスであろう。改元の効果が,改元詔書の発布により生じるとすれば,改元詔書の日付が,旧元号で記載されるのは当然であり,問題は,改元詔書が発布された後,その効果が遡及するか否かということにあるからである。ただ,芝は気がついていないようであるが,慶応以前の改元の場合,新元号は,改元詔書の発布前から使用されていたようであり*8改元詔書も,新元号の日付で出されるのが例であったようであるところ*9,この点の相違は,考慮に値するかもしれない。

国定教科書の取扱

大正元年9月9日,文部次官は,内閣書記官長に対し,国定教科書について,明治天皇崩御の日付をどのように記載すべきか照会した。明治以前については,年始説によるのが古例であるが,大正改元については,改元詔書に「七月三十日以後ヲ改メテ」と明記されている以上,年始説によることはできない。したがって,明治天皇崩御の午前0時43分で新旧元号を使い分けるのが妥当ではなかろうかというのである(大正元年9月9日発図第145号文部省図書局照会*10)。

これに対し,内閣書記官長は,「御意見ノ通」として,新帝即位時説をとることを回答した。同回答によれば,宮内省においても同様に解釈することが協議済であったとのことである(大正元年9月11日内閣送第30号内閣書記官長回答*11)。そして,大正元年9月26日内閣送第32号内閣書記官長回答*12により,先帝崩御は旧元号により,新帝即位は新元号によることが確認された。

以上の経緯によれば,大正当時,「七月三十日以後ヲ改メテ」という詔書の文言は,改元日説を意味するものであるとは理解されていたが,午前0時説を意味するものとは考えられていなかったことが窺われよう。

大赦令の解釈

大正天皇の即位に伴う大赦に関連して,「大正元年七月三十日前ノ所為」について懲戒,懲罰を免除する勅令が出された(大正元年10月5日勅令第30号)。高橋茂夫「明治以来の元号」によれば,これについて,大正元年官房第1420号海軍省文書が,「七月三十日前トアルハ七月三十日ヲ含マサル趣旨ナリ、従テ同令ノ七月三十日前ノ所為トハ七月二十九日迄ノ所為ヲ指ス」と部内に通知したとのことである*13。高橋は,大正元年7月30日の「前」が,明治45年7月29日であるとすれば,明治45年7月30日が存在する余地はないと理解し,当時の政府は,午前0時説を採用していたと主張する*14

高橋指摘の海軍省文書は未見であるが,大赦令にいう「前」が,前日の午後12時までのことであることは,一般的な法解釈であり*15昭和天皇の即位に伴う大赦の際にには,昭和2年1月29日秘第29号司法省刑事局長通牒が,「昭和元年十二月二十五日前(大正十五年十二月二十四日午後十二時迄)ニ於テ…」として,同様の取扱を指示していた*16

しかし,新帝即位時説に立っても,平成元年の「前」の年が,昭和64年ではなく,昭和63年であるのと同様,大正元年7月30日の「前」の日は,明治45年7月30日ではなく,明治45年7月29日であるということはできる。つまり,前記海軍省文書は,「前」とは,「以前」という意味ではないことを明らかにしたにすぎないとも考えられるのであり,高橋のいうように,前記通知が,午前0時説を前提にするものであると即断してよいか,なお検討が必要であろう。実際,所功元号の歴史〔増補版〕』・199頁は,この取扱を「事務処理の便宜上」と評価する。

.司法行政文書の取扱

大正元年8月2日,高松地方裁判所長は,大正改元の官報を受け取る前,明治の元号付で出してしまった文書等について,「七月三十日」に遡って訂正すべきか,本省に問い合わせた。これに対し,司法省民事局長は,訴訟事件,非訟事件に関する文書に記載したものについては訂正する必要はないが,司法行政文書については「七月三十一日」に遡って訂正すべきと回答し,翌日説による処理を指示した(大正元年8月6日司法省民事局長通牒*17)。

ただし,上記通牒は,7月31日については,明らかに大正であるから,正しく訂正しなければならないが,7月30日については,明治なのか,大正なのか定かでないから,あるいは,明治でもあり,大正でもあるから(改元日併用説),敢えて訂正する必要はないという趣旨の指示に理解することもできることに注意が必要である。

.戸籍事務の取扱

改元当日に出生した者の生年月日を戸籍に記載する方法について,昭和39年9月17・18日高知地方法務局管内戸籍住民登録事務協議会連合総会決議は,出生の当日届出のものは,新旧両元号いずれでもよいこと,出生の翌日以後届出のものは,新元号によるのが相当であるが,旧元号による場合でも訂正する必要はないことを議決した。改元日併用説の一種であるが,午前0時説にも親和的である*18。これに対し,昭和42年7月3・4日福岡連合戸籍住民登録事務協議会決議は,大正元年の最終日は12月24日であり,明治45年の最終日は7月29日であると決議し,明確に午前0時説を採用した*19

ただし,前章で指摘したとおり,以上の決議は,事務処理の基準を統一しようというものにすぎず,元号法制の正しい理解を示そうというものではない可能性が高いことに注意が必要である。

私見

詔書発布時説は,時系列の流れに沿い,感覚的にもわかりやすい見解である。しかし,詔書の発布の時点が,何時何分何秒なのか,理論上も,実際上も,難しい問題があり,現実に採用するのは困難であろう。

これに対し,午前0時説であれば,区別の時点が明確であり,実務的に採用しやすい。翌日説,改元日併用説も,同様に実務に資するが,前者は,詔書の文言との関係で問題があり,後者は,便宜にすぎて,表記が統一されないという欠点がある。

他方,新帝即時説は,一世一元の制という理念的な正当性を有し,何より,大正は,大正天皇の治世,昭和は,昭和天皇の治世という結論が,非常に美しい。しかし,新帝即位時説についても,以下の2つの問題を指摘することができる。

第1は,時差の問題である。大正改元当時,日本領台湾は,日本中央標準時と1時間の時差を有していた。しかし,新帝即位の瞬間というのは,時差と無関係に存在するから,大正天皇の即位は,台湾において,大正元年7月「29日」午後11時43分(日本西部標準時)と表現されてしまう*20。この結論は,改元詔書の文言に反するのではなかろうか*21。台湾に限らず,在外公館などにおいて,現地時間を元号で表現する場合も同断である*22

第2の問題は,より根本的である。新帝即位時説は,大正,昭和改元について,新帝即位の日と改元詔書の「某日を改め」の日とが,たまたま一致していることに依存する。しかし,同じく一世一元であるはずの明治改元,平成改元については,この一致を利用することができない。そこで,次章以下では,この点を検討することにする。
続く

*1:枢密院会議筆記・元号建定ノ件・大正15年12月25日(国立公文書館・2−A・15−9・枢D509)。

*2:この点に疑問を呈するものとして,深谷博治「明治改元とその後の改元」(朝日新聞昭和43年10月1日夕刊9頁・研究ノート)がある。もっとも,深谷は,「元号存続,いまや時代錯誤」(朝日新聞昭和43年10月29日朝刊5頁・声)において改説したようである。

*3:朝日新聞昭和43年10月20日朝刊5頁・声欄。ただし,高橋の所説は,「明治以来の元号」(日本歴史・253号・117頁)になると,詔書の文言のみならず,後述の海軍省文書を根拠とするものに変わる。

*4:美濃部達吉『憲法撮要』・204頁宮沢俊義『皇室法』(新法学全集・第1巻)・23頁,『憲法略説』・82頁。

*5:深谷博治「元号存続,いまや時代錯誤」(朝日新聞昭和43年10月29日朝刊5頁・声)がある。

*6:なお,ここにいう「公布」が,公式令12条にいう法律上の「公布」を意味するのか定かでない。公式令によれば,詔書(同令1条)の発布は官報によることになっている。大正改元詔書は,明治45年7月30日付官報号外によって公布されているが,同官報が,実際に明治45年7月30日に印刷されたとは限らない。芝は,この点をどのように考えているのであろうか。

*7:芝葛盛『皇室制度』(岩波講座日本歴史・第10)・16頁

*8:『江家次第』巻18・改元事(改訂増補故実叢書・2巻・468頁)。

*9:元慶改元の詔書永観改元の詔書慶応改元の詔書(古事類苑・歳事部四・改元詔書・315頁)参照

*10:文部省例規類纂第3巻848頁(国立公文書館・公文類聚・第36編・明治45年〜大正元年・第12巻・件名番号13)。

*11:文部省例規類纂第3巻848頁(国立公文書館・公文類聚・第36編・明治45年〜大正元年・第12巻・件名番号13)。

*12:文部省例規類纂第3巻848頁(国立公文書館・公文類聚・第36編・明治45年〜大正元年・第12巻・件名番号13)。もっとも,同回答に対応する大正元年9月25日官図第61号文部省図書局照会は,「甲説」(新帝即位時説)と「乙説」(詔書発布時説)を併記したものであり,前記第30号回答が,新帝即位時説を採用することを指示したものとして理解されていたのか,必ずしも定かでない。

*13:高橋茂夫「明治以来の元号」(日本歴史・253号・117頁)・124頁参照。

*14:高橋茂夫「明治以来の元号」(日本歴史・253号・117頁)。

*15:岡田亥之三『逐条恩赦法釈義』(改訂三版)・141頁。

*16:国立公文書館・「恩赦制度審議会に関する件・総理庁官房総務課長」・「大赦令施行に関する心得抜粋(昭和2.1.29刑事局長通牒秘第二九号)(昭和23.3.6検総印)、減刑令施行に関する心得抜粋(昭和2.1.29刑事局長通牒秘第二九号)(同)、復権令施行に関する心得抜粋(昭和2.2.19刑事局長通牒秘第六六号)(同)」。

*17:法務省民事局『登記関係先例集』上・325頁・433号。なお,大正元年7月31日文庶第1号司法次官通牒という文書も関連しそうなのであるが,同文書を見つけることはできなかた。

*18:日本加除出版出版部『親族、相続、戸籍に関する訓令通牒録』・5624号。

*19:日本加除出版出版部『親族、相続、戸籍に関する訓令通牒録』・1078号。

*20:明治28年勅令167号標準時ニ関スル件参照。

*21:もっとも,改元詔書にいう「七月三十日以後」を日本中央標準時の「七月三十日」と理解すれば問題はないのかもしれない。

*22:なお,平成改元について,昭和64年1月7日民2第20号民事局長通達は,在外公館においては,現地時間の1月8日から新元号を使用すべきとしている。

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